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姉が通っている学校の名前を、
まどかは、あまり口に出したことがなかった。
鈴蘭学院。
知ってはいた。
知らないはずがなかった。
けれど、それはずっと、
家の中にある「触れなくていいもの」だった。
朝、玄関で靴を履きながら、
さやの制服を横目で見る。
紺色のブレザー。
襟元の整ったリボン。
動くたびに、音を立てないスカート。
同じ制服なのに、
それを着ているだけで、
姉は少し遠くに見えた。
「いってきます」
さやは、いつも通りの声で言う。
「いってらっしゃい」
まどかも、いつも通り返す。
でも、その日はなぜか、
玄関のドアが閉まるまで、
視線を外せなかった。
学校で、友だちが言った。
「ねえ、日向って、お姉ちゃんいるんだよね」
「うん」
「どこの高校?」
その問いに、
まどかは一拍、間を置いた。
「……鈴蘭学院」
口にした瞬間、
空気が少しだけ変わった。
「え、あの?」
「すごくない?」
「お嬢様学校じゃん」
言葉は驚きで、
悪意はなかった。
それが、余計に逃げ場をなくした。
「……そう、なのかな」
自分の声が、
少しだけ小さくなったのが分かった。
帰り道、
まどかは姉のことを考えながら歩いた。
どうして、
あの学校に通っているのか。
どうして、
何も話さないのか。
家では、
さやは普通の姉だった。
テレビを見て笑って、
夕飯の準備を手伝って、
まどかの話を、ちゃんと聞く。
でも、学校の話だけは、
ほとんどしない。
その夜、
まどかは思い切って聞いてみた。
「お姉ちゃんの学校って、
やっぱり、すごいところ?」
さやは一瞬、箸を止めた。
「……どうして?」
「みんな、そう言うから」
少し考えてから、
さやは穏やかに答えた。
「すごいかどうかは、人によるよ」
「楽しい?」
「……楽しいこともある」
それ以上は、言わなかった。
まどかも、それ以上聞けなかった。
そのときは、まだ分からなかった。
姉が話さないのは、
秘密にしたいからじゃない。
言葉にすると、
何かが壊れてしまうからだということを。
この頃から、
鈴蘭学院は、
遠い名前じゃなくなった。
家の中にあって、
会話の端にあって、
けれど、まだ踏み込めない場所。
それが、
日向まどかの日常に、
静かに影を落とし始めていた。