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「はい、今日もよろしくお願いします、ってそんなガチガチに見られると緊張するんですけど……」
「まだ何も言ってないけど」
「でも顔が“観察してる”顔です。絵を描く人の顔になってる」
アトリエに差し込む朝の光の中、藤澤は例の椅子に座って、大森の言うとおりの姿勢を取ろうとする……が、やはりすぐにそわそわし始める。
指先をいじり、椅子の足をつつき、息を吸っては止め、そして唐突に口を開いた。
「大森さんって、普段何食べてるんですか?」
「質問のクセがすごいな」
「いや、なんか栄養とか偏ってそうだなって…その、なんかそういうタイプの服着てるし」
「それ、貶してるでしょ」
「わかんないです。でもカフェインとゼリーだけで生きてそうだなって……」
「実際そんなもんだよ」
「やっぱり!」
藤澤は嬉しそうに笑って、椅子の上で少し身を乗り出す。大森は筆を止めて、じっとその動きを見た。
「動かないで」
「あ、ごめんなさい。じっとするの苦手なんです。すぐ喋っちゃうし」
「それは知ってる。藤澤ずっと独り言言ってるよね」
「黙ってると変なこと考えちゃうんです。ちゃんと描かれてるかな、とか変な顔してないかな、とか」
「大丈夫。変な顔してても、描きたいと思ったから呼んだんだよ」
「変な顔って前提なんですね……」
藤澤が苦笑して目をそらす。その耳がほんのり赤いことに、大森は気づいていた。
(ああ、また触れたいと思ってる)
この目の前の青年の頬とか、髪の先とか――線にするだけじゃ足りない。
目で追って、筆でなぞって、でもそれでも足りない。
言葉にも、絵にもできない欲が、喉の奥でつかえていた。
「……ねぇ大森さん」
「ん」
「髪、伸びました?」
「…ちょっとだけ」
「ひとつ結びできそう!試してみていいですか?」
「は?」
「動かないです。すぐ戻しますから」
そう言うが早いか、藤澤はそっと椅子から腰を上げ、大森の後ろに回り込んでいた。
柔らかい指がゆっくりと後ろ髪を集めていく。
細い指。あたたかい手のひら。息が耳の近くをかすめていく。
「…できた。結び目、かわいいです」
「何してんの」
「え、いや、ただ結んだだけで…」
「そういうの、軽率にやるな」
「……すみません。気になって」
藤澤が静かに後ろに下がる。その距離が戻っていくのが、ほんの少し惜しいと思ってしまった自分に、大森は小さく息を吐いた。
「次やったらこっちからもなにかするぞ」
「…なに、されるんですか?」
「知らない。まだ」
その答えに藤澤の顔がぱっと赤くなる。
でもそのまま彼は微笑んだ。
ちょっと困ったような、でも嫌じゃなさそうな顔で。
「じゃあーー次は、覚悟しときます」
その笑顔が、今日の絵の中で1番眩しかった。
_____________
朝からしとしとと雨が降っていた。
アトリエの窓を薄く開けておくと雨粒の跳ねる音が静かに入り込んでくる。キャンバスの前に立つ大森の集中力を邪魔しないくらいに、ちょうどいいノイズ。
「雨の音、嫌いじゃないです。静かなのに生きてるって感じがするから」
そう言って藤澤はいつもの椅子に座った。
今日もモデルのはずだったけれど、開始早々なんとなく描く気になれず、大森は筆を置いていた。
「今日は描かないんですか?」
「描けないっていうか、描かなくてもいいかなって思った」
「え、それって僕、飽きられた感じです?」
「そう思う?」
「うーん…なんか、嫌われてたらどうしようってすぐ考えちゃうんです、僕」
藤澤は少し笑って、でもその目の奥には不安のようなものがかすかに揺れていた。
大森はしばらく黙っていたが、ふと手を伸ばし筆の代わりに小さなスケッチブックを開いた。
「じゃあ、今日は落書きでもするか。会話だけで描けるか試してみたい」
「え、僕、喋ってるだけでいいんですか?」
「どうせ黙ってられないでしょ」
「…ひどい」
言いながらも、藤澤は口元を緩めてくすっと笑った。
「じゃあ、うーんと、そうだな…この前、親から仕送りと一緒に梅干しが届いたんですよ。で、それがなんかやたらでかくて……」
話は脈絡もなく続く。
実家の梅干しの話から、大学の課題、講義中に寝て怒られた話、近所のパン屋の焼き立てバゲットがうまい話。大森はその声を聞きながら時折うなずいたり、時折線を引いたりする。
時々筆を持つ手が止まって目を上げて藤澤を見つめる。その度に藤澤は「なんですか?」と聞いてきて、大森は「別に」と答える。
「本当になんでもないですか?」
「藤澤、笑うと耳が赤くなるんだなって」
「……あー」
藤澤は顔を覆って、わかりやすく真っ赤になった。
「……観察されるって、こんな恥ずかしいんですね」
「でも、それを描くのが俺の仕事」
「うまいこと言って逃げましたね、今」
「逃げてない」
大森は淡々と返しながら、スケッチブックを閉じた。その表紙の裏に、今日の藤澤の「顔」がいくつも収まっている。
曇った窓越しに、雨脚が少しだけ強くなる。ふたりの間の空気もまた、少しずつ、湿度を増していた。
「……ねぇ、大森さん」
「ん」
「この時間、けっこう好きです」
「俺も」
何気ない会話だった。けれどその言葉がふたりの胸に、確かに残っていた。
アトリエの中、雨の匂いと体温だけがふたりの気配を包んでいた。