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午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。黒板を写しているはずなのに、ノートの文字は妙に歪んでいる。
気づけば背後にある隣のクラスに、意識を飛ばしてしまった。
(蓮は今、どんな気持ちで授業を受けているのだろう。彼は取り繕うのがうまいから、俺みたいに落ち着きをなくさないで、きっとノートもキレイに取っているはず――それでも俺と話すまでは、心中穏やかでいられないに違いない)
昼休みのチャイムが鳴る。林田に呼びかけられたが「ごめん、用事ある」とだけ言って、足早に廊下へ出た。廊下を歩く足音がやけに大きく響いて、胸の鼓動と混じり合う。手のひらはじっとり汗ばんで、握ったままの弁当袋が滑り落ちそうだった。
隣のクラスに入り、氷室に視線を飛ばす。まだ机の上に弁当は出していなかった。彼は俺に気づき、少し驚いたように目を上げる。
「ここで一緒に……いい?」
急いで近づいてかけた声が、思っていたより小さいものになってしまった。
「ああ」
向かい合うと、教室のざわめきが遠のく。辺りに漂う昼の匂い――弁当の温かい香りや、机に反射する光までやけに鮮明に感じられた。
「蓮あのね、昨日はごめん。蓮を困らせた気がして」
そのひと言で、俺を見つめる瞳が微かに揺れた。俺が謝ったことで、氷室の肩の力がほんの少しだけ抜けたのがわかる。
「……困らせたのは、大きな声を出した俺のほうだ」
低く落ちる声。視線は机の上に落ちたままだった。
「昨日、奏に言いたいことが他にもあった。でも……うまく言葉にならなかった」
胸が跳ねる。答えが近づいている予感に、無意識に前のめりになった。
沈黙――時計の秒針と、教室の笑い声がやけに遠くで混じり合う。
「……奏」
静かな口調で名前を呼ばれ、俺はそっと頷く。
「俺は、おまえを信じてる。けど――」
氷室は唇を噛み、まぶたを伏せる。そこから続く言葉を待つ数秒が、永遠にも思えた。教室のざわめきが遠のき、心臓の音だけが耳を塞ぐ。
俺から言葉を促すと、彼は短く息をはいた。
「神崎の言葉が……まだ頭から離れない」
小さな声なのに、まっすぐ胸に落ちてくる。やっぱり、あの日の影はまだ消えていなかった。
「蓮……」
俺が言葉を探すより早く、氷室がほほ笑んだ。けれどそれは、痛みを隠すための笑顔だった。
「変だよな。俺らのことは俺らが一番わかってるはずなのに……神崎のあんなひと言で、簡単に揺れるなんて」
机の下、握られた拳が小さく震えている。俺は立ち上がり、その手を包み込む。与える温もりが、少しずつ蓮の強張りを溶かしていくはずなんだ。
「……俺は蓮の隣にいたい。健ちゃんがなにを言っても、俺の気持ちは揺れない。蓮が不安になるなら、何度だって伝える」
氷室の瞳が大きく揺れ、なにかを言いかけたその瞬間、無情にもチャイムが鳴り響いた。俺たちの間に、強引に幕を引くように。
(……まだ終わってない)
急いで弁当を食べ終えた俺たちは、胸の奥に小さな火種を抱えたまま午後の授業へ向かった。