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──深夜。
窓の外には月が浮かび
薄雲がその輪郭をぼんやりと霞ませていた。
街はとっくに眠りについており
喫茶桜の居住スペースも
静寂に包まれている。
アラインの瞼が、ゆっくりと震えた。
寝起きの世界はぼやけていて
天井の模様すら直ぐには認識できなかった。
(⋯⋯どこ、ここ⋯⋯?)
呼吸が浅い。
体は鉛のように重く
神経の先端がまだ休息を求めて軋んでいる。
それでも
何かに引かれるように
ベッドから身体を起こした。
毛布が滑り落ちる。
冷たい床に素足をつけると
目がようやく覚めていくのを感じた。
ゆっくりと扉を開け、廊下へ出る。
漆黒の闇が満ちた廊下の奥
階段下の扉の隙間から
うっすらと柔らかな明かりが漏れていた。
アラインは、ゆるゆると階段を下る。
足音を立てぬよう気をつけながら
それでも足取りはまだどこかふらついていた。
──カチャリ
扉をそっと開けると
そこは居住スペースのリビングだった。
室内には
読書灯の灯りがぽつりとひとつ。
その下で
時也が帳簿を前に
静かにペンを走らせていた。
深い藍色の着物姿に
書き物の音だけが寄り添う。
その姿は
まるで〝日常〟を守るための
静かな守護者のようだった。
「⋯⋯おや、起きられましたか?」
ふと顔を上げた時也が
穏やかな笑みを浮かべた。
アラインは少し目を細めながら
肩を竦めるようにして近付いていく。
「⋯⋯ボク、寝落ちた?」
「はい。カウンターで⋯⋯ぐっすりと」
そう返されて
アラインは気まずそうに口元を手で隠した。
軽く前髪をかき上げながら
テーブルの対面に腰を下ろす。
「⋯⋯なんか、すごく、久しぶりに
ちゃんと眠った気がする」
「それだけ、お疲れだったのでしょうね。
お腹は、空いてませんか?」
時也の問いかけに
アラインは小さく頷いた。
「⋯⋯うん。空いてる、かも」
その答えに
時也はそっと椅子を引き、立ち上がる。
着物の裾がふわりと揺れ
台所へ向かう背中が月光に透けた。
「では
なにか軽いものをお作りしましょう。
少々お待ちください」
すぐに、静かな包丁の音が
眠った家に優しく響き始める。
明かりの届くリビングの隅。
そこに座るアラインの横顔は
少しだけ安らいでいた。
まるで、ようやく
〝夜〟に許された子供のように。
疲れがまだ身体に巣くっていた。
肩は重く、瞼の奥が熱を帯びている。
思考は海中の泡のようにふわふわとして
ぼんやりと世界を見ていた。
そんなアラインの鼻先を
ふわりと包むような湯気が擽る。
それは、出汁と野菜の優しい香り。
じんわりと広がるそれは
まるで見えない毛布で
心を包まれたような感覚だった。
「お待たせいたしました。
食べられそうでしたら
おかわりもありますので
遠慮なく仰ってくださいね?」
そう言って
時也がテーブルに
木製のトレーをそっと置く。
品のある和食膳──
白粥に、刻んだ野菜の味噌汁
ほうれん草のお浸しと、温かい卵焼き。
決して派手ではないが、どこか懐かしく
心に沁みる風景だった。
アラインは、スプーンを手に取って
ゆっくりと粥をすくう。
一口。
口内に広がるのは
塩の角を削り、出汁の旨味で整えられた
優しすぎる味だった。
(⋯⋯変なの。
いつも、誰かに作ってもらって
食べてるのに⋯⋯
今日は、なんだか⋯⋯不思議な感じ)
食べるほどに
喉と胸の奥がじんわりと温かくなる。
時也は
アラインの食事の邪魔をしないよう
静かに帳簿を片付け
リビング奥のソファに移動していた。
黒褐色の髪が灯りを掠めるたび
柔らかい光が揺れ
静けさが夜の深さを教える。
時也は一冊の本を取り出し
膝の上に広げると、黙って読み始めた。
その動きのひとつひとつが
騒がしさのない
穏やかな時間の演出者だった。
やがて
アラインが最後のひと匙を
口に運んだ頃合いを見計らい
彼は再び立ち上がった。
そして、数分後──
ふわりと甘い香りが漂う。
「もう少し眠れるように
カフェインは控えた方が良いかと思いまして」
湯気を立てるマグカップ。
その中には
蜂蜜をたっぷりと溶かした
温かいミルクが入っていた。
アラインは、言葉もなくそれを見つめる。
白く揺れるミルクの表面が
どこか夢の中に続いているように見えた。
彼は静かにカップを手に取り、席を立つと
そのままソファーへと向かう。
ソファの端。
本を読んでいた時也の隣に
すとんと腰を下ろす。
「⋯⋯アラインさん?」
時也が小さく問いかける。
アラインは
ホットミルクを両手で包んだまま
膝に視線を落としながら答えた。
「⋯⋯ん。
わかんないけど、こっちに来ちゃった⋯⋯」
湯気の奥で揺れる瞳が
少しだけ伏せられる。
「⋯⋯ご飯、美味しかったよ」
ほんの短い言葉。
けれど、その音は
静寂に溶け込むようにして
夜の空気を柔らかく揺らした。
時也はその隣で、小さく微笑む。
誰も責めず、急かさず
ただ隣にいるという静かな優しさだけが
そこにあった。