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ソファの隣。
まだ温もりを抱いたホットミルクの湯気が
夜の静けさの中で揺れていた。
時也は、アラインの隣に座りながら
ふと視線を遠くに落とした。
頭の中に浮かんできたのは
あの日の記憶──
ライエルが
教会を兼ねた孤児院の設立を
真剣な面持ちで語ったときのこと。
それは単なる慈善ではなかった。
時代も、現代人の心の動きも知らない男が
それでも誰かのために何かを為そうと
胸の内を曝け出した瞬間だった。
──そして、時也は聴いたのだ。
ライエルの心の奥から
溢れるように滲み出てきた
〝哀しみ〟の色。
それは、誰かを想う祈りであり
過去に囚われた少年への赦しだった。
そう、彼は初めて知った。
アラインが、孤児院で育ったこと。
しかも〝神の怒りを受けた子〟と呼ばれ──
存在するだけで
疎まれ、恐れられ、蔑まれてきたこと。
それをアライン自身の口から聞いたことは
時也の記憶には、一度もなかった。
彼はいつも、余裕そうに笑っていた。
皮肉と嘲笑で己を守り
他人を試し
常に〝上〟から見下ろしていた。
けれど──
あれはきっと、防衛だったのだ。
愛し方を知らず、愛されたこともない者の
不器用な処世術。
そう感じた今
時也の胸には
言葉にならない想いが込み上げた。
そっと、手を伸ばす。
何も告げず、ただアラインの背に触れた。
「⋯⋯良く
ここまで頑張ってくださいましたね」
低く、穏やかな声だった。
だがその響きには
過去に寄り添おうとする慈しみと
今ここにいる彼を肯定する
静かな力があった。
それが
孤児院設立の努力に対する言葉なのか──
あるいは
過去を生き抜いた少年への言葉なのか
本人にも分からない。
だが、確かにそれは
今のアラインへ向けられたものだった。
触れた瞬間
アラインの身体がびくりと跳ねた。
硬直。拒絶に近い反応。
だが──
数秒の沈黙ののち
彼の肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
押し殺すような吐息が
彼の喉奥から洩れた。
頭を俯かせたまま
手にしたミルクのカップをじっと見つめ
何も言わずに──
ただその背に触れる手を
静かに受け入れた。
「⋯⋯なぁに?ボクを飼い慣らすつもり?」
アラインは
背を撫でられたまま、口元だけで笑った。
けれどその声は
いつものような
冷ややかな皮肉ではなかった。
少しだけ、震えていた。
少しだけ、拗ねていた。
時也はその言葉に
ふふっと優しく微笑んだまま答える。
「飼い慣らすだなんて、とんでもない。
ただ──
疲れている人に
少しでも楽になってほしいだけですよ」
そう言いながら
撫でていた掌を少し広げて
今度は背中全体を包むように掌を添える。
アラインの細身の肩が、小さく揺れた。
「⋯⋯甘やかすと、調子に乗るよ?」
「それなら、存分に乗ってください。
そういう日があっても、いいと思いますよ」
アラインは喉の奥で
かすれたような音を立てて笑った。
呆れたように見せかけて
その声の芯には
どうしようもなく
心地良さに負ける甘さが滲んでいた。
(⋯⋯ああ、やだな。
アリアに抱きしめられた時も、そうだった。
⋯⋯時也も、同じだ。
あったかいと、ボク、壊れる)
「⋯⋯撫でるだけじゃ、足りないな」
アラインはミルクをそっとテーブルに置くと
ゆっくりと横を向いた。
ソファに並んで座る時也の肩に
額を静かに預ける。
「⋯⋯ちょっとだけ。今夜だけ」
くぐもった声でそう呟くと
彼の睫毛が静かに伏せられた。
静かな夜。
暖かな空間。
膝の上にはホットミルク、隣には微笑む男。
アラインの心から
緊張の糸がひとつ、ふっと解けていった。
まるで、ようやく許された子供のように。
「ねぇ⋯⋯時也?」
その声は
まるで夢の中の囁きのように小さく
甘く、頼りなかった。
時也はソファの隣で
その微かな震えを孕んだ言葉に
すぐさま耳を傾ける。
「はい、なんでしょう?」
アラインは
まだ額を彼の肩に預けたまま
目を閉じていた。
けれどその睫毛が、僅かに揺れている。
まるで
何かを決意するように
何かを試すように。
「ボク、お風呂入りたい⋯⋯」
その言葉に
時也は少しだけ驚いたように瞬きする。
だがすぐに
穏やかな微笑みに戻ってそっと立ち上がる。
「かしこまりました。
直ぐに沸かしてきますね」
踵を返そうとした瞬間
背中からもう一度──
今度は、ほんの少し縋るような声が届いた。
「⋯⋯ねぇ」
時也は振り返る。
見下ろせば、アラインが顔を半分
膝に隠してこちらを見上げていた。
「はい?」
呼吸の間すら、張り詰めたような静寂。
そして──
「⋯⋯洗って欲しいな?
今日は調子に乗っても、良いんでしょ?」
その声には、どこか拗ねたような
子供が許しを乞うような、は
くすぐったい甘さが含まれていた。
けれど、同時に──
それは〝怖い〟と言えない子供が差し出す
精一杯の勇気でもあった。
時也は何も言わず
ただしばらくアラインを見つめていた。
彼の瞳に浮かぶ疲労と弱さ
皮肉の仮面に隠した素顔を
真正面から見つめて。
──そして、静かに頷く。
「⋯⋯わかりました。
お湯加減も、丁度良くしておきますね」
アラインの頬が、緩く綻ぶ。
その表情は
どこか安心しきった子供のようで──
時也の胸に
切なさと温もりが同時に広がっていく。
天使はそっと
傷付き壊れた子供に手を差し伸べた。
その掌には何の強制も命令もない。
ただ〝ここに居てもいい〟という
温かな証だけがあった。