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《JAXA/ISAS 相模原キャンパス/プラネタリーディフェンス作戦室》
夜明け前の作戦室は、
昨日よりさらに静かだった。
もう、
「日本のどこか」ではない。
「茨城県のどこか」だ。
その上で今日の画面には、
茨城県だけを拡大した地図が
大きく映し出されている。
県境。
海岸線。
河川。
高速道路。
市町村の境界。
その上を、
細い赤い帯が
北から南へ斜めに走っていた。
若手研究者が、
画面を操作する。
「最新の軌道解です。」
「昨夜の県名公表以降、
美星スペースガードセンター、
IAWN各局、
CNEOSの追観測で、
誤差楕円はさらに縮小しました。」
「“茨城県内のどこか”は維持。」
「そのうえで、
県北から県央にかけての帯が
現在の最有力です。」
白鳥レイナは、
茨城県の地図を見つめた。
「沿岸?」
別の研究者が
首を横に振る。
「まだ断定できません。」
「海側に寄る解も、
内陸に寄る解も残っています。」
「ただし、
県南はかなり可能性が下がりました。」
「逆に、
県北~県央の帯の中で
濃淡がはっきりし始めています。」
レイナは、
画面の赤い筋を見た。
(“茨城県”と口にした昨日より、
今日の方がずっと残酷だ。)
(県の次は、
地域になる。)
(地域の次は、
町になる。)
(その次は、
たぶん誰かの家の近くになる。)
若手が
小さく尋ねた。
「先生、
今日の官邸向け資料、
“県北~県央”まで書きますか。」
レイナは
すぐには答えなかった。
ホワイトボードには
こう書かれている。
『名前を出すたび、
社会は一段壊れる』
レイナは、
その文字を一度見てから言った。
「“県北~県央の帯”までは書く。」
「でも、
市町村名はまだ出さない。」
「今は、
“その地域にいる人を
先に動かせるかどうか”が先。」
「当てることより、
減らすこと。」
「犠牲も、
混乱も。」
誰かが
小さくうなずいた。
《総理官邸・状況室》
スクリーンに映る茨城県の地図を、
鷹岡サクラは
立ったまま見ていた。
昨日までは
“県名を言うかどうか”だった。
今日は、
“県内のどこに向けて先に動かすか”の話だ。
藤原危機管理監が
報告する。
「JAXAの最新解析では、
茨城県北~県央にかけての帯が
主な高確率帯です。」
「沿岸・内陸・山間部、
いずれのパターンも残っています。」
「よって、
現時点では“県北~県央の帯”を対象に、
避難・移送・物資の優先配置を
さらに強めるのが妥当です。」
国交省が
地図の上に
道路網を重ねる。
「県内北部へ向かう道路は
すでに自主避難車両で混雑しています。」
「このままだと、
“外へ出たい車”と
“中へ支援物資を入れたい車”が
正面衝突します。」
警察庁が続ける。
「昨夜から、
県内のガソリンスタンド、
ホームセンター、
コンビニで
トラブルが増加しています。」
「“もう終わりだろ”と
酒に酔って暴れる者、
買い占め、
路上駐車、
無断侵入。」
「車中泊集団が
公園・学校周辺・道の駅に定着し始めています。」
厚労省の担当が
疲れた声で言う。
「問題は、
そこにいる人たちが
“まだ避難所に入れていない人たち”だということです。」
「正式避難所の受け入れは
登録と優先順位で回していますが、」
「不安で先に動いた一般の家族が
行き場を失って
車とテントに流れている。」
サクラは
ゆっくりと問いかけた。
「今の段階で、
国として何を優先しますか。」
誰もすぐには答えない。
だからこそ、
サクラははっきり言った。
「“まだ正式避難対象ではないけれど、
もう避難生活に入ってしまっている人たち”を
見捨てないでください。」
「その人たちは
わがままで先走ったんじゃない。」
「恐怖の中で、
先に動くしかなかった人たちです。」
「仮設トイレ、
給水、
簡易医療、
見回り。」
「“非公式避難”に対する
最低限の支援線を
今日から引きます。」
藤原が
すぐにメモを取った。
「正式避難所外支援、ですね。」
「はい。」
サクラは
茨城県の地図から目を離さずに言う。
「地震は、
いつ来るか分からないから
人は“その日までは普通”でいられた。」
「でも今回は、
来る日が分かっている。」
「だから社会が、
先に壊れていく。」
「それを前提にした
防災じゃないと、
もう間に合わない。」
その言葉のあと、
誰も反論しなかった。
《茨城県・県北の道の駅》
駐車場は、
車で埋まっていた。
軽自動車、
ミニバン、
古いワゴン、
地方ナンバーのキャンピングカー。
そのあいだに
テントが立ち、
小さなテーブルが置かれ、
カセットコンロの青い火が揺れている。
子どもが
レジャーシートの上で
トランプをしている。
「……ここ、
もう一泊するの?」
父親が
ガソリン残量を見ながら答える。
「たぶん。」
「町の体育館、
今日もいっぱいだって。」
母親が
スマホを握ったまま言う。
「さっき、
市のサイト見た。」
「“優先避難対象外の方は
しばらく自主避難を継続してください”だって。」
父親は
苦く笑った。
「自主避難って、
言葉だけは立派だな。」
「実際は
車中泊だろ。」
近くの車では、
祖母が咳き込んでいた。
孫娘が
ペットボトルを差し出す。
「ばあば、大丈夫?」
「……大丈夫。
ちょっと寒いだけ。」
でも、
誰の目にも
大丈夫ではなかった。
道の駅の事務所前では、
職員が張り紙を貼っている。
『ご利用の皆さまへ
・長期滞在を前提とした設備はありません
・ゴミは各自お持ち帰りください
・トイレは譲り合ってご利用ください』
その横で、
市の職員が
臨時に持ち込まれた簡易トイレの位置を確認していた。
「水の配給は
午後三時からにします。」
「夜間の見回り、
警察と消防にも頼めますか。」
「女性と子どもが多いから、
防犯だけは絶対に落とせない。」
芝生の端では、
高校生くらいの男子が
車のボンネットにノートを広げていた。
「何してるの?」
妹が聞く。
「宿題。」
「まだやるの?」
「……分かんない。」
彼は
シャーペンを止めて言う。
「でも、
何もしないで待つよりは
ちょっとマシ。」
《茨城県・病院》
病院の廊下には、
いつもより多くのストレッチャーと
段ボール箱が並んでいた。
事務長が
看護師長に指示する。
「透析患者の搬送、
第二便を前倒しします。」
「県南へ送る予定だった人も、
今日の更新を受けて
さらに西へずらした方がいいかもしれません。」
看護師長が
記録表を見ながら答える。
「でも家族の同意が……」
「取ります。」
事務長は
短く言った。
「取れないなら、
本人にも説明する。」
「“まだ何も確定していないから”で
動かない時間は、
もう終わりました。」
そのとき、
病室から
小学生くらいの女の子の声がした。
「ママ、
わたしもお引っ越し?」
母親が
言葉に詰まる。
「……うん。
ちょっとだけね。」
「いつ帰ってくるの?」
答えられない。
でも、
黙ることもできない。
母親は
しゃがみ込んで
娘の手を握った。
「帰ってこれるように、
今、先に行くの。」
その言葉は
娘よりも、
自分自身に向けたものだった。
《新聞社・社会部》
紙面は、
まだ出ていた。
だが、
昨日より
さらに空席が増えている。
配送部から
「一部地域で朝刊遅延」の連絡。
写真部は
二人が来ていない。
校閲も、
いつもの半分。
桐生誠は
モニターに向かっていた。
見出しはもう決まっている。
『茨城県内、県北~県央が高リスク帯』
その文字を打ったあと、
指が止まる。
編集長が
コーヒー片手に近づいてきた。
「書けるか。」
「……書きます。」
「そうか。」
しばらく沈黙。
編集長が
桐生の隣の空いた席を見て言う。
「来なくなったやつらを
責めるなよ。」
「責めてません。」
「ほんとか?」
桐生は
笑わなかった。
「俺だって、
考えてますから。」
「何を。」
「ここまで書いて、
最後に俺だけ
西へ逃げるのかどうか。」
編集長は
少しだけ肩を落とした。
「それを考えないやつの方が
たぶん危ない。」
桐生は
窓の外の空を見る。
晴れている。
おそろしく晴れている。
(記事を書く。
でも、
書いた先に
自分がどこにいるのかは
まだ決められない。)
(“記録する”って、
その場に残る覚悟のことなのか。)
(それとも、
生き延びて後から書くことなのか。)
モニターの脇には、
城ヶ崎の名前が書かれた古いメモ。
まだ捨てられずにある。
《とあるネットカフェ・個室》
城ヶ崎悠真は、
ニュースの見出しを見つめていた。
〈茨城県、県北~県央で高リスク〉
〈避難生活はすでに始まっている〉
モニターの中では、
車中泊の映像。
道の駅。
簡易トイレ。
毛布にくるまる子ども。
(ここまで来たか。)
彼は
額を押さえた。
(俺は、
“隠されていたこと”に耐えられなくて
データを渡した。)
(でも、
その先に来る現実まで
想像してたか?)
(してない。)
(してなかった。)
画面には
桐生の記事の見出し。
それを見た瞬間、
城ヶ崎は
椅子にもたれた。
(桐生はまだ書いてる。)
(俺は?)
茶封筒は、
もう空だ。
でも頭の中には、
まだ残っているものがある。
初期の揺れ方。
上層部が嫌がった数字。
観測網の癖。
そして“今の帯の縮み方”に
違和感がないかどうかを見る目。
(今からでも、
技術メモくらいは
送れるんじゃないか。)
(匿名で。
IAWNに。
JAXAに。
桐生に。)
(それとも、
俺が触ることで
また余計な混乱を起こすか。)
右手が、
スマホに伸びる。
止まる。
伸びる。
止まる。
(……まだ、
決められない。)
その優柔不断さが、
自分でも嫌になる。
《世界のSNS/日本への声》
〈We are worried about Ibaraki.〉
〈茨城の友人と連絡が取れた。無事でいてほしい〉
〈受け入れ先を提供したい〉
〈Japan, please tell us what you need〉
世界からの心配は、
県名が出たことで
急に具体的になった。
その一方で、
冷たい声もある。
〈So now it’s Ibaraki. Keep them away from here.〉
〈Why didn’t they evacuate sooner?〉
そして黎明教団は、
相変わらず別の方向から
言葉を差し込んでくる。
〈黎明教団・公式〉
『茨城は、
光が最初に触れる場所なのかもしれません。
恐れではなく、受容を。』
慰めの顔をした、
別の種類の刃だった。
《総理官邸・夜の会見》
サクラは、
今日の会見では
最初から茨城県の地図を出した。
記者たちが
一斉に視線を上げる。
「本日の解析更新で、
茨城県内でも
県北から県央にかけての帯が、
特に高リスクであることが
見えてきました。」
「ただし、
沿岸か内陸か、
山間部か都市近郊かについては、
まだ確定していません。」
「だからこそ政府は、
“茨城県全体を対象とした避難支援”と、
“県北~県央帯への優先対応”を
同時に進めます。」
「また、
すでに自主避難に入っている方々——」
サクラは
そこを強く言った。
「車中泊、テント泊、
公園や道の駅等で
非公式に避難生活をしている方々に対しても、」
「水、トイレ、防犯、
簡易医療など、
最低限の支援線を引き始めます。」
記者が問う。
「総理、
それは“正式避難所以外でも
国が支援する”という意味ですか。」
「はい。」
「恐怖の中で先に動いた方々を
“勝手に出た人”として
切り捨てることはしません。」
サクラは
少しだけ声を落とした。
「地震は、
いつ来るか分からないからこそ
人はその日まで
普通に暮らせました。」
「しかし今回は、
来る日が見えている。」
「だから人の心と社会が、
先に削られていく。」
「それを前提にした
防災と支援に
切り替えなければなりません。」
一瞬、
会見場が静まる。
そしてサクラは、
言葉を続けた。
「私は今も、
“もっと別の手はなかったのか”と
考えます。」
「ですが今、
私たちが確実にできることは
一つです。」
「生きて、生き延びてもらうこと。」
「そのために
国としてできることを
全力で進めます。」
その言葉は、
核を選ばなかった国の
次の責任として
静かに響いた。
Day6。
オメガ予測落下日まで、あと6日。
落下予測は
茨城県の中へ、
さらに県北から県央へと
狭まっていく。
名前の次は、
地域。
地域の次は、
避難生活。
そしてその先には、
まだ言葉にならない現実が待っている。
空は今日も晴れていた。
だからこそ、
人々は先に
車を走らせ、
テントを張り、
仕事を離れ、
記事を書き、
迷い続ける。
石が落ちる前に、
生活がもう
別の形で始まっていた。
本作はフィクションであり、実在の団体・施設名は物語上の演出として登場します。実在の団体等が本作を推奨・保証するものではありません。
This is a work of fiction. Names of real organizations and facilities are used for realism only and do not imply endorsement.