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「考えさせて」
その言葉から、早いものでもう三ヶ月が経った。
ここまで特に何の進展もないまま、僕は職場と家とを往復する毎日を過ごしている。
会社では顔を合わせるから挨拶はするし、勤務中は会話もするけれど、あくまでも仕事の話だけなので、これと言って特筆できるものもない。
「はぁ…」
僕は小さなため息を吐きつつも、一週間ぶりのお休みの日を大事にしようと出かける準備を始めた。
資格の勉強用のテキスト、仕事中に取ったメモの束、自己啓発本とお気に入りの手帳。
それらを小ぶりなリュックサックに詰め込んで、僕は玄関のドアを開けた。
今は、朝の8時頃。
週に2日しかないお休みの日にゆっくり寝ているなんて勿体無い。
早起きすれば、その分できることもたくさんある。
仕事の勉強もしたいし、自分の考え方とか、価値観とか、社会で生きていく上で、あって損はない武器のようなものを、今のうちからたくさん身に付けておきたかった。
仕事も恋も、なんでも一生懸命でいたい。
歩き慣れた道を通って、行きつけの場所に辿り着く。
洋風のおしゃれなドアを開けると、カランコロンとドアベルの音が爽やかに鳴る。
お店の中にはまだ誰もいないことを確認してから、僕は中にいる人に聞こえるように声を掛けた。
「オーナー、おはよー。今日も来ちゃったー」
「あ、ラウ。おはよう。二週間ぶりだね。今日も勉強?」
「うん、今日も一日ここで勉強する」
「頑張り屋さんだね、無理しないでね?」
「うん!大丈夫!いろんこと身に付いて楽しいよ!」
「そっかそっか。仕事が楽しいって思えるのはいいことだね。頑張って。ご飯は食べたの?」
「ううん、今日もいつものお願いします」
「はい、かしこまりました。ふふ」
大学生時代のバイト先のオーナーは、僕と軽い会話をした後、キッチンの方へ戻って行った。
僕が言った「いつもの」というのは、僕が就職してから出してもらうようになったものだ。
僕は二週間に一度、休みの日は朝から閉店までの時間をここで過ごすようになった。
予定がない日は勉強する日を作って、一日中このお店に籠る。
僕にとっては第二の実家みたいなところだから、居心地が良くて、リラックスした状態のまま集中できるのだ。
そんな過ごし方をするようになった僕に、オーナーは素敵なメニューを作ってくれた。
朝は、サンドイッチとかおにぎりとか、代表的な朝ごはんを。
昼は、パスタとかうどんとか、時にはハンバーグとかがっつりとしたものとか、僕がその日食べたいものを聞いて作ってくれる。
夜は、一日頑張ったご褒美にって、いつも僕の大好物の唐揚げを作ってくれる。
合間合間にそばに置いてくれるコーヒーとか紅茶も、食べたものに合わせて出してくれる。
こんなに盛りだくさんなのに、オーナーは、「身内価格で3,000円ね」と、安過ぎない?お店潰れない?というくらいの金額で、毎回お会計をする。
そうは思いつつ、まだまだ働き始めたばかりでそこまでお給料が高いわけじゃないから、結局その厚意に甘えてしまっているのだが。
いつも思うけれど、オーナーのおもてなしはすごい。
どんなに忙しくてもお客さん一人一人に合わせて、何をしたらその人は喜んでくれるかを考えて接している。
僕もお客様とたくさん関わっていく仕事に就いているからこそ、オーナーのこの接客を是非とも参考にさせて欲しいと思った。
僕は、お気に入りの手帳に、
「どんな状況でも、何をしたら目の前の人が喜んでくれるかを考えながら仕事をする」
とメモをして、ボールペンをノックしてペン先をしまった。
「はい、お待たせ」
トレーを両手で持ちながら、ゆっくりと歩いてきたオーナーは僕の前にその板を置いてくれた。
「ありがとう!わ、今日はお茶漬けだ!美味しそう!」
「胃は大切にしないとね?」
「ん?」
「顔が少し浮腫んでる。クマも少しできてる。大方昨日飲み会あったのに、今日少し無理して早起きしたんでしょ?」
「ぇ“、そこまでわかる…?」
「これでも接客業10年、オーナー歴5年ですから」
「ひぇぇ…やっぱすごいや…」
オーナーの言う通り、昨日はお休み前ということで、同じ部署の人たちとの飲み会があった。
そこまでお酒は飲まなかったけれど、居酒屋さんのご飯は揚げ物や味付けの濃いものが多くて、昨日の夜も今日の朝も、実は若干胃もたれしていた。
それに、明日はオーナーのお店で勉強しようと前日から決めていたから、朝、僕はショボショボの眠たい目を沢山擦りながら、ベッドを這い出たのだった。
接客業の先輩だからなのか、人生経験の差からなのか、今の僕の体調はオーナーには全部お見通しだった。
ここまでの察する力は、流石に何年も磨かないと実践は難しいだろうな、なんて考えつつ、僕は手を合わせてからお茶漬けを啜った。
優しいお出汁が、荒れた胃にじんわりと染み込んでいった。
一つ、ヒントをもらったような気がした。
オーナーはその人の状態とか、体調とか、外から見える僅かな情報を頼りにしていた。
それでいて、決して押し付けがましくない。
今は、相手が僕だから、どうして今日はお茶漬けなのかの理由まで教えてくれたけど、お任せの注文が入った時、オーナーは基本的に、ここまでのネタバラシみたいなものはしない。
でも、お任せで注文したお客さんは皆、「今、こういうのが食べたかった」って顔をしながらオーナーが作ったオリジナルのご飯を食べている。
オーナーは、カウンターの奥でその様子を見ながら、「うん、よかった」と言って、一人でニコニコしている。
お店の雰囲気もさながら、なによりもオーナーの接客とご飯に惹かれて、お任せのオーダーをする常連さんが多い。
阿部ちゃんもその一人で、いつもお任せのご飯を頼んでいたし、オーナーは阿部ちゃんにはいつも通常のメニューとは違うカフェオレを出す。
ある時僕は「どうして阿部ちゃんにはいつもその作り方なの?」と聞いたことがある。
オーナーは、「阿部が一番って言ってくれたの」とだけ答えてくれた。
なんだか、こういう接客って、カッコいいな。
僕はそう思いながら、お茶漬けの鮭をほぐしていると、オーナーがテーブルの上に置いていた僕の手帳に目をやりながら、尋ねた。
「これ、この間の?」
「ん、、そう!」
ご飯粒を飲み込んでから軽く返事をした後に続けた。
「向井さんからもらった手帳!僕のお気に入り!」
就職のお祝いに、向井さんからもらった手帳は僕の相棒だ。
仕事の日はもちろん、こうやってお休みの日にも仕事のヒントがあればメモしておきたくて、毎日持ち歩いている。
お茶漬けが入った小さな丼を一度置いて、僕はその手帳を抱き締めた。
「この子と毎日一緒に頑張ってるんだ」
そう言うと、オーナーは「そう」と言って優しく笑いつつ、
「そっちの方は何か進展あったの?」と続けて僕に問い掛けた。
その質問に、僕は盛大に項垂れた。
「…………………ないよぉ……」
「ご飯誘ってみたの?」
「さそえてない…」
「連絡先は?交換した?」
「会社のグループチャットにいるけど、追加する勇気がない…」
「康二から返事は?」
「こない………」
「…傷付けるつもりはないんだけど、だいぶ重症だね」
「ぅわぁぁん…!どうしたらいいかわかんないよー!」
「もう思い切ってご飯誘ってみたら?」
「断られたら一生立ち直れないもん…」
「言ってみなきゃわかんないでしょ?ほら、今誘いなさい」
「えぇぇ…」
「はい、早くスマホ出す」
「はい…」
「連絡先追加して、文字打って」
「…えぇと……はい…打ったよ…?」
「見せて?…うん、大丈夫でしょ。はい、送って」
「ぇえええ!怖い!無理!できない!」
「もう…!好きならいつまでもウジウジしない!なら俺が送信ボタン押してあげる。スマホ貸して」
「ッそれはやだぁっ!自分で押すよぉ…」
なかなか強引なオーナーからの指示に従いながら、僕は意を決して送信ボタンを押した。
返事が欲しいのに、見るのが怖くて、僕はスマホを封印するように液晶を閉じて、反対向きにしてからテーブルの一番端っこに置いた。
ピコン、と鳴る通知音で意識が現実に戻る。
微睡の中で、手探りでスマホを手繰って引き寄せる。
辛うじて開いた薄目 で通知を確認する。
顔認証のパスコードが反応しなくて、仕方なく手で数字を押していく。
二桁目まで押して、そこでまた意識が途切れる。
ハッとまた意識が戻ってきて、どのくらい経っただろうかと頭を巡らせたが、結局わからなかった。さっき見た時間も覚えてないほどの二度寝をしていたことだけは確かだった。
ロック解除のパスコード入力を最初からやり直す。
徐々にはっきりとしてきた視界に映ったのは、後輩からのメッセージ。
「おはようございます。朝早くにすみません。明日、もしよかったらご飯食べに行きませんか?」
その子と連絡を個人的に取り合ったのは初めてで、トークルームの中で、それはポツンと寂しそうだった。
起き抜けのぽやぁっとした頭で、明日の予定を思い出す。
特に何も予定は入ってなかったなと結論がついて、俺は何も深く考えずに「ええよ」と返信した。
トークルームにその子と俺の文字が重なる。
少しだけ、寂しさが薄れたような、そんな気がした。
寝ぼけ眼を擦りながら、洗面台に向かう。
顔を洗って、タオルで押し当てるように水分を取っていけば、意識は次第に澄み渡っていって、俺はそこで初めて焦り出した。
「明日!?!急やな!!?どないしよ!!」
「好きです」
その言葉から、早いものでもう三ヶ月が経った。
俺は未だに返事ができていない。
申し訳ないとは思いつつ、自分の中でうまく答えが出せないまま、家と職場を往復する日々を過ごしていた。
気持ちに応えられるのか、そうじゃないのか、応えたいのか、そうしたくないのか、まだよく分からない。
導き出せそうで、うまく考えつかない。
そんな日々の繰り返しの中で、急に訪れたこの機会をどう過ごそうかと、落ち着かない気持ちで思案する。
せっかく巡ってきたタイミングだ。
これは、聞きたかったことを聞くチャンスなのかもしれない。
それによっては、どんなに考えても未だ答えの出ない問いのヒントがもらえるかもしれない。
僅かな期待を抱きつつも、誰かと二人きりで出掛けるなんて久しぶりのことで、少し落ち着かない。
頭では冷静に思考を巡らせているが、心は忙しなくて、気持ちにつられて体は慌ただしく動き回る。
部屋中をぐるぐると歩き回っては、足の小指を思い切り戸棚にぶつけて、その場にうずくまる。
「ぅ”ぁ”ぁ”ッ…いだぃ”…」
じんじんと鈍い痛みに耐えながら、彼、村上くんのことを思う。
あの子はこの三ヶ月間何を思って過ごしていたのだろう。
避けていたわけじゃない。
でも、返事をしていない。
逃げていたわけじゃない。
でも、答えを出せていない。
俺の小指の痛みより、あの子の方が痛くて苦しかったんじゃないか。
ふとそんな考えが頭をよぎっては、自分の弱虫な心に嫌気がさした。
「ごめんなぁ…っ」
蹲りながら、俺は誰にも届くことのない、誰に伝えているのかも分からない申し訳なささを虚空に吐き出した。
スマホからピーンと音がして、僕は握っていたペンを放り出して端末に飛び付いた。
ドキドキと脈打つ鼓動を抑えながら、スマホのロックを解除して、トークアプリを開いた。
先程勇気を出して送ったメッセージの下に、シンプルな言葉が一つ。
「ええよ」の三文字に、僕は今どこにいるのかも忘れて
「やったぁぁぁああああああッ!!!!」
と、立ち上がって両手を天高く上げた。
時間はお昼の12時くらい。
段々と混み合ってきた店内で、周りにいたお客さんたちは、驚いたように、少し不思議そうに僕を見ていた。
僕は、肩を窄めて椅子に座り直した。
火が出そうになるくらいに熱くなった顔を両手で隠しながら、
「すみません……」
と小さく唸ったのだった。
ちょっと待ってくれ、と言う間もなくやってきてしまった翌日の夜、俺は近所にある定食屋に向かった。
成人したばかりでまだお酒にそこまで興味がないのか、お店のチョイスが初々しくて可愛い。
俺としては、ここ最近飲み会続きだったから、村上くんのその選択はありがたかった。
店の前でソワソワしている村上くんに声を掛けて、俺たちはお店の中に入った。
夜はそこまで混み合っていないお店の中で、席につくと、まずは食べたいものを決めて注文をした。
優しいおばちゃんが「お待ちくださいね」と言って奥に下がって行くと、いよいよギチッと硬い空気が俺たちの周りを取り囲む。
俺たちはコップの水を一口飲んだ。
全く同じタイミングでコップを手に取って、二人とも一言も話さず水を飲む光景が、なんだかシュールだった。
そこで俺たちの緊張は途端に解れて、お互いに小さく笑い合った。
最初から本題に入るのも気が早いかと、俺はまず当たり障りのないことから触れていった。
「どや?仕事慣れた?」
「まだまだ新鮮なことばかりですが、毎日楽しくて、目まぐるしくて学べることが沢山あって充実してます!」
「そらよかったわ。他部署やけど、俺にもできることがあったらなんでも言ってな?村上くんなら絶対お客様を幸せにできるって思ってんで」
「えへへ、、嬉しい」
褒め言葉をそのまま受け取って、自分の気持ちを包み隠すことなく表に出す素直さが、青く、眩しかった。
俺ならきっと、変にへりくだってしまうだろう。
照れくさそうに笑うその顔が、まだどこかあどけなくて、胸がきゅうっと詰まる。
これは若さへの憧れか、はたまた、この子に魅せられているのか。
いずれにしても、今俺の中にある気持ちが、徐々にこの子の方を向き始めている、それは間違いなかった。
「お待ちどうさまね!」と言いながらおばちゃんが二人分のお盆を両手に持って、俺たちの前まで来てくれた。
お盆を受け取って、冷めないうちにと村上くんにお箸を渡してから手を合わせた。
「「いただきます」」
二人の声が揃う。
意図せずピッタリと合うこの感じが、先程から俺をむず痒くさせる。
タイミングが合う度に嬉しそうに顔を綻ばせる村上くんに絆される。
細まった目元に見惚れていた意識をハッと呼び戻して、ほかほかのご飯を食べ始めた。
ご飯を食べながらの方が、村上くんも気が紛れるだろうかと、俺はここでずっと聞きたかったことを尋ねた。
「なぁ、村上くん?」
「はい?」
「この前言ってた、「ずっと前から」ってどう言う意味なん?」
「へ?」
「こないだ言うてくれたやん、ずっと前から好きやったって。俺、君と会うたん今年に入ってからやったと思うし、なんやずっと気になっててん」
「……ぁ、えっと、少し前に向井さんに会ったことがあるんですが、でもそれはそんな大したことじゃないんです。ぁはは…」
村上くんは続けて言った。
「向井さんは、ずっと僕の太陽です」
少しだけ眉を下げて優しく笑うその顔に切なくなって、俺はこの子といつかに会ったことを、ちゃんと思い出さなければいけないような気がした。
もしかしたらとは思っていた。
これまでの向井さんは僕を懐かしむ素振りを全く見せなかったから、初めて会った時のことを、きっと覚えていないんだろうなと。
でも、別にそれでよかった。
僕は、僕の全部を未来に託したから。
高校生の時の僕のことを覚えていなくても、今の僕にいつか振り向いてくれたらそれで十分だった。
それに、事細かく、いつ、どこで会った、なんて伝えるのもなんだが気が引けて、僕は咄嗟にはぐらかした。
「向井さんは、ずっと僕の太陽です」
向井さんの質問の答えにはなっていないだろう。
でも、少しだけ姿を見せた僕の期待が、
「いつか思い出して」って小さく声をあげていた。
僕はその主張に少し困って、自分の眉が下がるのを感じた。
To Be Continued……………………………
コメント
3件
言わないのねぇ 健気🤍
こーじーー思い出してあげてーーー🥹🤍🧡