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上司に指定された昼休み前の時報に合わせて、本社ビルの高層階にある常務専用の個室の扉を、軽快にノックした。
ノックした手を下げる際にネクタイが曲がっていることに気づき、慌てて直していると、扉が音を立てて大きく開かれる。
「ヒッ!」
変な声が出てしまった原因は、扉を開けた人物が例の新人、花園常務の息子だったせい。
「先輩、こんにちは!」
「こっ、コニチハ……」
ありえない日本語であいさつした俺を、新人はまぶしすぎる笑みで室内に迎い入れる。
「僕、言っちゃうかもしれません♡」
客を招き入れる真摯なドアマンのように、扉の前で背筋を伸ばした新人が、とても小さな声で可愛らしく告げた。そのせいで進んでいた俺の足が、ぴたりと止まる。
あからさまに、ぎょっとした俺を見ているというのに、ヤツは笑みを崩すことなく、どこか楽しげに告げる。
「僕と先輩がキスしたこと――」
「おまっ!」
「島田くん、わざわざ済まないね」
なにかを企てている様相を滲ませたまなざしが、眼鏡の奥から注がれることで、見事に言葉を奪われた。
息を飲んで棒立ちになる俺に、花園常務がすかさず歩み寄り、俺の背中に手を添えて中に誘う。
「息子からいろいろ聞いて、君と直接話がしたくなった。さ、どうぞかけてくれ」
「あ、はい……」
見るからに高級そうな応接セットのソファの隅に、躰を小さくしながら腰かけた。俺の隣になんの迷いもなく、新人が堂々と座る。大きなソファなのに、こぶし一つ分しかスペースのない近い位置で座るとか、なにを考えているんだろうか。
「おい――」
コソッと小声で話しかけても、新人は睨む俺の視線を華麗にスルーし、満面の笑みを返した。
「島田くん、もうすぐお昼が届くから、少しだけ待っていてもらえるか?」
「へっ?」
「君、うな重が好きなんだって? 天然うなぎを使ったものを届けさせるから、楽しみにしてくれ」
(うな重が好きだって、なんで常務が知って――)
そう考えた瞬間、隣から小さな笑い声が耳に聞こえた。
「先輩ってば、うな重って言葉を聞いただけで、口からヨダレを垂らしそうな顔をしてましたよ」
銀縁メガネをあげながら指摘されたせいで、慌てて口元を拭ったが、湿り気を感じることはなく、いつもと変わりなかった。
「おまえ、さっきからなんなんだ」
「僕を平手打ちした島田|熱寿《ひいと》先輩について、興味を抱いちゃいけませんか?」
「興味って、いったい……」
「僕の教育係をしている先輩が、島田先輩の同期の林さんなんです」
ひょんなところで、仲のいい林の名前が出たのがきっかけとなり、俺の好みをコイツが知っている理由がわかった。
「俺の情報を、林経由で聞いたってわけか」
「落としたいお客様の情報を、あらゆる手を使ってゲットして、なんとしてでも営業の仕事につなげることを、林先輩から教わりました」
「あ、そう」
素っ気なく答えるなり顔を前に向けて、花園常務をガン見した。
仕事と称しているが、俺みたいなのに恋愛感情を抱く変質者の相手を、まともにするつもりはない。
「僕に素っ気ない態度をとる、先輩のことが大好きです♡」
ふたたびギョッとすることを、花園常務に聞こえる声量で告げられたため驚き、ソファの上で飛び跳ねた。
「おおぉ、おまえなぁ……」
花園常務になんていいわけをしようか、頭の中はそのことでいっぱいだった。
「お父さん、見ました? 先輩、すごいでしょ?」
「確かに。おまえのことを特別視せず、普通に接しているな」
「特別視?」
親子間の会話がいたって普通なのが、逆に怖い。だって自分の息子が同性に向かって『大好き』という、信じられない言葉を告げたというのに、どうして取り乱すことなく、平然としていられるのだろうか。
コメント
2件
ありがとうございます😊
この話好きすぎる🫶