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最終章・超長編「痕跡」
駿は、朝という概念を失っていた。
カーテンの向こうに光があるかどうかも、どうでもよかった。
時間は動いているはずなのに、彼の中ではずっと同じ場所に釘付けになっていた。
起き上がらない。
眠ってもいない。
ただ、横たわっている。
……いや、正確には、**“在る”**ことだけをしている。
生きているとは言えなかった。
死んでいるとも言えなかった。
ただ、在る。
在るという言葉は、
彼にとって、もう罰だった。
部屋は、部屋の顔をしていなかった。
そこは「人が暮らす」という意味を失った空間だった。
いつのものか分からないレシート。
読みかけの書類。
冷め切ったまま、二度と温まらない匂い。
自分の痕跡が、
自分より先に死んでいるようだった。
「……俺、もう……」
声は出なかった。
音にする勇気がなかった。
音にすれば、存在してしまうから。
この部屋に、
この世界に、
まだ自分がいることを、認めてしまうから。
スマホを開く。
画面は光る。
その光が、ひどく嘘くさい。
誰の名前も、
誰の通知も、
並んでいない。
指は、何度も名前を打ちかけて、消す。
今さら、誰に何を言えばいい?
「元気?」
「大丈夫?」
「久しぶり」
どれも書けなかった。
元気じゃない。
大丈夫じゃない。
久しぶりと言えるほど、
人でいられなかった。
スマホを伏せる。
画面が消える。
それが、やけに象徴的だった。
――これが、俺の人生なんだな。
光っても、
意味を持たない。
封筒は開けなかった。
読むことは、答えを受け取ることだ。
そして今、
答えを受け取れるほど、
自分は生き残っていない。
現実という言葉が、
彼を刺す。
現実は、耐久力のある人間のものだ。
折れなかった人間のものだ。
折れた者は、
触れれば、もっと壊れる。
だから――
見なかった。
逃げたのではない。
崩れていた。
外に出ても、世界は彼を認識しなかった。
街は、忙しく、
騒がしく、
完璧に、無関心だった。
ラーメンの湯気。
信号の音。
人の話し声。
すべてが、眩しかった。
生きている側の景色だった。
――俺は、そこに居ない。
誰も、彼を押しのけなかった。
誰も、彼を避けなかった。
ただ、視界に入っていなかった。
それが一番残酷だった。
嫌われるのは、まだ救いだ。
拒絶されるのは、まだ関係があるという証拠だ。
無視ではない。
忘却でもない。
最初から、居なかった。
そんな扱いだった。
川は流れていた。
どんな悲しみの上を、
どんな人生の下を、
平等に、残酷に、優しく。
「……止まらねえな」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
世界は止まらない。
自分だけが、止まる。
それを「置いていかれる」というのだと、
初めて、実感した。
追いつけないのではない。
もう、走れない。
部屋に戻ると、静寂が待っていた。
音がない。
匂いがない。
空気の動きすら、ない。
「……ここが、俺の墓場か」
冗談のつもりだった。
でも、笑えなかった。
冗談は、生きている人間の特権だった。
思い出だけが、饒舌だった。
笑っていた頃の自分。
くだらないことに怒っていた自分。
未来を語っていた自分。
――誰だよ、それ。
今の自分と、
あまりにも別人だった。
他人の写真アルバムを見ているような気分だった。
そして、気づく。
あれは、“死んだ人間”の記録だ。
過去の自分は、
もう、存在しない。
死んだ。
生きたまま。
彼は、どこかで、分かっていた。
この壊れ方は、
一瞬では終わらない。
爆発しない。
消えない。
ただ、
薄くなっていく。
痛みが、
感情が、
願いが、
希望が、
一つずつ、
削れていく。
最後に残るのは、
「在る」という事実だけ。
――それは、生でしょうか?
――それは、死でしょうか?
もう、区別できなかった。
やがて、部屋の鍵が交換される。
それは、ドラマにならない。
ニュースにもならない。
人知れず。
文書の一行として。
「退去完了」
という無機質な言葉で、
彼の居場所は、この世界から消える。
荷物はまとめられる。
名前のついたものは、捨てられる。
思い出は、分別される。
記憶という名のゴミとして。
誰も泣かない。
誰も語らない。
世界にとって、
彼は**“処理済み”**だった。
大学の名簿から、名前が消える。
バイトのリストから、削除される。
連絡先から、消える。
ログイン履歴が、途切れる。
写真が、削除される。
存在は、データより脆い。
ある日、ふと人が思う。
「あれ、この人って……」
だが、答えは出ない。
なぜなら、
思い出せないから。
最初から、いなかった人間について、
人は、悩まない。
そして、世界は続く。
笑い声は響く。
新しい夢が生まれる。
別の人生が始まる。
何事もなかったかのように。
むしろ――
何事も起きていなかったかのように。
最後に残るのは、
「消えた」という事実ですらない。
ただ、
“空白”。
だが、その空白に、
誰も、つまずかない。
それが、
彼の人生の、
最も残酷な結末だった