TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

最終章・超長編「痕跡」


駿は、朝という概念を失っていた。

カーテンの向こうに光があるかどうかも、どうでもよかった。

時間は動いているはずなのに、彼の中ではずっと同じ場所に釘付けになっていた。


起き上がらない。

眠ってもいない。

ただ、横たわっている。


……いや、正確には、**“在る”**ことだけをしている。


生きているとは言えなかった。

死んでいるとも言えなかった。

ただ、在る。


在るという言葉は、

彼にとって、もう罰だった。





部屋は、部屋の顔をしていなかった。

そこは「人が暮らす」という意味を失った空間だった。


いつのものか分からないレシート。

読みかけの書類。

冷め切ったまま、二度と温まらない匂い。


自分の痕跡が、

自分より先に死んでいるようだった。


「……俺、もう……」


声は出なかった。


音にする勇気がなかった。

音にすれば、存在してしまうから。


この部屋に、

この世界に、

まだ自分がいることを、認めてしまうから。





スマホを開く。

画面は光る。

その光が、ひどく嘘くさい。


誰の名前も、

誰の通知も、

並んでいない。


指は、何度も名前を打ちかけて、消す。


今さら、誰に何を言えばいい?


「元気?」

「大丈夫?」

「久しぶり」


どれも書けなかった。


元気じゃない。

大丈夫じゃない。

久しぶりと言えるほど、

人でいられなかった。


スマホを伏せる。

画面が消える。

それが、やけに象徴的だった。


――これが、俺の人生なんだな。


光っても、

意味を持たない。





封筒は開けなかった。

読むことは、答えを受け取ることだ。


そして今、

答えを受け取れるほど、

自分は生き残っていない。


現実という言葉が、

彼を刺す。


現実は、耐久力のある人間のものだ。

折れなかった人間のものだ。


折れた者は、

触れれば、もっと壊れる。


だから――

見なかった。


逃げたのではない。

崩れていた。





外に出ても、世界は彼を認識しなかった。


街は、忙しく、

騒がしく、

完璧に、無関心だった。


ラーメンの湯気。

信号の音。

人の話し声。


すべてが、眩しかった。

生きている側の景色だった。


――俺は、そこに居ない。


誰も、彼を押しのけなかった。

誰も、彼を避けなかった。


ただ、視界に入っていなかった。


それが一番残酷だった。


嫌われるのは、まだ救いだ。

拒絶されるのは、まだ関係があるという証拠だ。


無視ではない。

忘却でもない。


最初から、居なかった。


そんな扱いだった。





川は流れていた。


どんな悲しみの上を、

どんな人生の下を、

平等に、残酷に、優しく。


「……止まらねえな」


誰にも聞こえない声で、呟いた。


世界は止まらない。

自分だけが、止まる。


それを「置いていかれる」というのだと、

初めて、実感した。


追いつけないのではない。

もう、走れない。





部屋に戻ると、静寂が待っていた。


音がない。

匂いがない。

空気の動きすら、ない。


「……ここが、俺の墓場か」


冗談のつもりだった。

でも、笑えなかった。


冗談は、生きている人間の特権だった。





思い出だけが、饒舌だった。


笑っていた頃の自分。

くだらないことに怒っていた自分。

未来を語っていた自分。


――誰だよ、それ。


今の自分と、

あまりにも別人だった。


他人の写真アルバムを見ているような気分だった。


そして、気づく。


あれは、“死んだ人間”の記録だ。


過去の自分は、

もう、存在しない。


死んだ。


生きたまま。





彼は、どこかで、分かっていた。


この壊れ方は、

一瞬では終わらない。


爆発しない。

消えない。


ただ、

薄くなっていく。


痛みが、

感情が、

願いが、

希望が、


一つずつ、

削れていく。


最後に残るのは、

「在る」という事実だけ。


――それは、生でしょうか?


――それは、死でしょうか?


もう、区別できなかった。





やがて、部屋の鍵が交換される。


それは、ドラマにならない。

ニュースにもならない。


人知れず。

文書の一行として。


「退去完了」


という無機質な言葉で、

彼の居場所は、この世界から消える。


荷物はまとめられる。

名前のついたものは、捨てられる。

思い出は、分別される。


記憶という名のゴミとして。


誰も泣かない。

誰も語らない。


世界にとって、

彼は**“処理済み”**だった。





大学の名簿から、名前が消える。

バイトのリストから、削除される。

連絡先から、消える。

ログイン履歴が、途切れる。

写真が、削除される。


存在は、データより脆い。


ある日、ふと人が思う。


「あれ、この人って……」


だが、答えは出ない。


なぜなら、

思い出せないから。


最初から、いなかった人間について、

人は、悩まない。





そして、世界は続く。


笑い声は響く。

新しい夢が生まれる。

別の人生が始まる。


何事もなかったかのように。


むしろ――

何事も起きていなかったかのように。





最後に残るのは、

「消えた」という事実ですらない。


ただ、


“空白”。


だが、その空白に、

誰も、つまずかない。


それが、

彼の人生の、

最も残酷な結末だった

この作品はいかがでしたか?

1

コメント

0

👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚