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茶色い大地には、木々はおろか雑草すらも見当たらない。
不毛の土地と言う他ないが、無人ではない理由はエウィンとアゲハが歩いているためだ。
日の出と共に起床、朝食を済ませて、二人は早々に旅立った。
一時間前の出来事だ。
以降は周囲を見渡しながら歩き続けている。
だからこそ、愚痴の一つもこぼれてしまう。
「ミファレト亀裂、見当たらないですね」
太陽の光を遮るように右手で帽子のつばを作りながら、エウィンが遠方を眺める。
大きなリュックサックは今日も膨張気味だ。二人分の荷物を収納しているため、どうしても膨らんでしまう。
その姿はさながら旅人だ。腰の短剣がなければ、そう見間違えても不思議ではない。
傭兵として魔物を狩れるからこそ、イダンリネア王国から遠く離れたこの地でも、能天気に歩けている。
少年の発言を受けて、アゲハが良そうを述べる。
「中央付近に、多く見られるみたい。もっと、先かも……」
歩きながらも時折黒髪を押さえる理由は、砂埃をまとった風がいたずらっぽく吹くためだ。
この地は平坦な荒野な上、遮蔽物が存在しない。風速はどうしても上がってしまう。
「焦る必要はないかもですけど、このまま歩いてても退屈ですし、少しくらいは走っちゃいます?」
「うん、ここは、広いからね」
ミファレト荒野。ケイロー渓谷の西に広がる、盆地状の大地。周囲を山脈に囲まれており、立地的にも不便なことから寄り付く者は少ない。
そうであろうと、彼らはここに赴いた。大地の裂け目を見るためであり、二人は徒歩からジョギングへ移行する。
そのまま進むこと数十分。
異変を感じ取った以上、エウィンとしてもそのことに触れないわけにはいかない。
「魔物です。やっと会えたと喜ぶべきか」
右前方を眺めると、当然ながら茶色い地平線しか見当たらない。
実際には、水色の空も視界に映り込む。朝方にも関わらず陽射しが眩しい理由は、快晴ゆえに雲が存在しないためか。
西風に顔を撫でられながら、アゲハも真似るように北側を見つめる。
「ミファリザド、かな?」
「多分そうだと思います。遅かれ早かれ遭遇するでしょうけど、折角ですし見に行きますか」
勝算があるのなら、悪くない判断だ。
二人にとって、この地は未知の場所に他ならない。傭兵として活動範囲を広げた以上、魔物に関する情報収集は最優先事項だ。
生き残るためにも。
金を稼ぐためにも。
本音としては好奇心が刺激されただけなのだが、エウィンは行先を魔物へ変更する。
荒野を踏みしめながら淡々と進めば、あっという間に遭遇だ。エウィンは目を細めると、憶測を交えて所感を述べる。
「いました、あいつです。思ってたよりはでかくないのかな? 茶色だから風景に溶け込んでて、こういうのを保護色って言うんでしたっけ?」
地面の上を闊歩する、四足歩行の何か。むき出しの大地と同色のため、視認性の悪さはいなめない。
「うん。のっそのっそ歩いてるね。一人だと、見つけられなかったかも……」
遠方のそれは鈍重な動作だ。少なくとも二人にはそう見えてしまう。
気づかれない程度には離れているため、警戒しながらも躊躇なく近づく。周囲には他の個体がいないことから、エウィンの足取りは軽快だ。
「いつものように、先ずは僕が戦ってみます」
「うん、気を付けて……」
「問題なければ、とどめはアゲハさんに譲ります」
このやり取りは今回が初めてではない。
エウィンとアゲハ。二人は傭兵だ。この事実は決して揺るがない。
しかし、両者は共に経験の浅さが弱点となっている。
草原ウサギだけを十年近く狩り続けた少年。
この世界へ転生した日本人。
二人があちこちを駆け巡るようになったのは、ここ半年のことだ。
理由は不明ながらも、エウィンの身体能力は大幅に強化された。ゴブリンだけでなく、巨人族さえも単身で屠れるほどだ。
一方で、アゲハはひ弱な女性に他ならない。転生前は何年間も引きこもっていたことから、運動不足は必然だ。
それでも二人旅が出来ている理由は、無数の魔物を倒したおかげだ。
これはこの世界の理であり、彼女はゲームのようだと感じるも、仕組みや原理はどうあれ、利用しない手はない。
もっとも、アゲハは未だ半人前だ。
経験の無さ。
臆病な性格。
それらが積極性を奪ってしまうため、エウィンの後ろをついていくことしか出来ない。
そうであろうと、彼らは二人組の傭兵だ。ユニティの手続きを申し込んではいないが、こうしてミファレト荒野に赴けている。
「深葬を、試すんだよね?」
「はい。慎重過ぎるかもですけど、傭兵なんてそれくらいで」
エウィンの言う通りだ。
この世界においても、死者を蘇らせる術はない。魔法で傷を治すことは出来ても、裏を返せばそこが限界だ。
ゆえに、傭兵は臆病なくらいが丁度良い。
立ち止まったアゲハとは対照的に、少年はグングンと歩く。
大トカゲはその首を人間達に向けており、緑髪の敵を警戒しながらも殺意は既に溢れんばかりだ。
(アゲハさんの青い炎は、ある意味で切り札だし……)
深葬。触れるだけで対象を完膚なきまでに燃やす能力。魔法でもなければ戦技でもないため、分類としては天技なのだろう。
彼女のこれは、現時点で全ての魔物を殺せている。矢や石さえも例外なく焼却出来ており、燃やせないものはないのかもしれない。
それでも、エウィンは試すことを心掛ける。通用しない相手がいた場合、戦い方や彼女の守り方を練り直す必要があるからだ。
(凶暴な魔物だ、こっちに近づいて来てる。思ってたよりも迫力があるな)
目線の高さは、当然ながらこの少年が上だ。
相手は地を這っており、人間側が必然的に見下ろすことになる。
それでもなお、圧迫感に晒される理由は、ミファリザドの全長が二メートル近いことも去ることながら、肌を刺すような殺気に由来するのかもしれない。
両者の距離が狭まるにつれ、四本足が機敏に動き出す。人間という獲物を前に興奮しているのだろう、ミファリザドの決して小さくない口が舌を見せつけるように開く。
少し離れた位置から観戦するアゲハですら、臆する気迫だ。軽自動車を思い起こさせる運動量ゆえ、体当たりだけでも人間を十分殺せる。
もちろん、その推測は正しい。
もしもアゲハが受けた場合、治療無しには二度と起き上がれない。
それほどの威力があるのだが、今回ばかりは相手が悪かった。
「砂コウモリの方がずっと速いな」
ゆえに、造作もない。
ましてや、避ける必要すらもない。
噛みつくようにぶつかってくる巨体に対し、エウィンはその頭部へ短剣を突き刺す。
抑え込むように逆手に持った刃を刺し込む、これ以上ないほどにシンプルな一撃だ。
「アゲハさん、オッケーです! まだかろうじて生きてますので、早く深葬を!」
「あ、う、うん!」
急がなければ、もう間もなくこのトカゲは息絶える。
頭蓋骨を貫かれ、脳を損壊させられた。完膚なきまでの致命傷ゆえ、本来ならばトドメなど不要だ。
しかし、この戦闘においては追撃を試みる。
アゲハの炎を試すことが目的ゆえ、急かさずにはいられない。
「押さえてますので、どうぞ」
「うん……」
頭部にアイアンダガーを残したまま、エウィンがミファリザドの背中に座り込み羽交い締めにする。最後の悪あがきすらも阻むためであり、アゲハとしても安心して近寄れる。
撫でるように、鱗だらけの顔にチョンと触れればそれだけで決着だ。
それを合図に、真っ青な炎がオオトカゲの顔を燃やし始める。
炎は瞬く間に全身へ燃え広がると、その内側の存在を残酷なまでに消し去ってみせる。
一瞬の出来事だ。燃えカスすらも見当たらない。
例外は、エウィンとアイアンダガーだけ。カランと乾いた音が響いた理由は、短剣が大地に落ちた結果だ。
「おー、わかってはいましたけど、お見事」
この光景には、エウィンとしても唸るしかない。
骨すらも残さない、完全焼却。
その火力には恐怖すら覚えるも、対象以外には一切の影響を与えないことから、危険性は低い。少なくともエウィンはそう捉えている。
「よかった……」
「ここの魔物も燃やせましたね。もしかしたら、弱体魔法とは勝手が違ってて、アゲハさんの深葬は相手が何であれ通用するのかも?」
この少年が慎重になる理由の一つが、弱体魔法のロジックだ。
対象の戦力を削ぐこの魔法群は、詠唱者と標的の魔力差によって成否が左右される。
つまりは、格上の魔物相手には効果がない。
弱体魔法は相手を傷つけることが出来ない上に、こういった事情で失敗することがある。攻撃魔法と比べると弱体魔法が軽視される要因の一つだ。
エウィンはアゲハの炎を、攻撃魔法のフレイムと同一視していない。
なぜなら、複数の差異が存在している。
一つ目が射程。フレイムは矢のように発射されるが、深葬はアゲハが触れなければ発動しない。
二つ目が火力。フレイムは対象を燃やし、焦がすことが限界なのだが、深葬は何であれ燃えカスすら残さず焼き尽くせてしまう。
三つめが魔源の消費。フレイムは魔法ゆえ、詠唱時に魔源が必要だ。対照的に、深葬は魔源の消耗はおろか疲弊すらしない。
これほどの違いがある以上、エウィンでなくとも青い炎を攻撃魔法と同一視出来ない。
ゆえに、弱体魔法に近いと考えた。この発想もまた突拍子もないのだが、深葬が通用するか否かの実験は悪手ではないはずだ。
傭兵として、エウィンはそう考えている。
「いや、さすがに楽観的過ぎるかな? 火の精霊と水の精霊、んでもって雰囲気が近い連中には警戒が必要かもです」
「属性の、相性的には、最悪だもんね」
属性とはこの世界のルールであり、フレイムは氷の魔物に致命傷を負わせられる一方で、火や水の魔物には通用しない。
深葬が炎であることから、火属性であることは確実だ。
「まぁ、精霊なんて早々に出くわさないんですけどね。マリアーヌ段丘で十年以上もウサギを狩ってて、二回くらいしか見かけたことありませんし」
精霊。魔物の中でもとりわけ異質な存在だ。
草原ウサギやミファリザドが動物の姿を模している一方で、精霊は異形と言う他ない。
火の精霊の場合、見た目は火の玉そのものだ。ふわふわと空中をさまよっており、非生物的な存在ながらも確実に存在している。
精霊は基本的に人間を襲わない。斬りかかったり攻撃魔法を撃ち込めば話は別だが、近寄らない限りは温厚な隣人と言える。
「これだけ、旅をしてても、全然だよね」
「倒したところで得られるものもありませんし、けっこう強いらしいのでそれはそれで構わないんですけど」
傭兵にとって、精霊は厄介な存在だ。
なぜなら、苦労に見合う対価が得られない。トドメを刺した瞬間に消滅してしまうため、何かを持ち帰ることなど不可能だ。
ましてや、精霊は生命力が高いだけでなく、攻撃魔法を使う。
火の精霊ならフレイムを。
氷の精霊ならアイスクルを。
属性が合致する魔法で反撃を試みるため、並の傭兵では勝てないばかりか逃げることすら叶わない。
ゆえに、精霊を見かけたとしても接触は避けるべきだ。傭兵にとっての常識であり、エウィンも常々心掛けている。
(でもまぁ、一回くらいはアゲハさんにも見せてあげたい。って思うこの気持ちは親心的な何かなのかな?)
もしくは先輩風を吹かせたいだけか。
どちらにせよ、ここはミファレト荒野であり、周囲には精霊はおろか魔物さえも見当たらない。眼下のミファリザドも塵一つ残さず燃え尽きてしまったことから、二人は改めて西を目指す。
ここはまだ東部付近。目当ての亀裂はもう少し先のようだ。
変わり映えのしない荒野を、二人は淡々と走る。樹木すらも生えていないため、ただただ退屈な風景だ。
「日本にも、こんな感じの地域ってあるんですか?」
ふと浮かんだ疑問を、エウィンはアゲハに投げかける。
この少年にとっても、乾いたこの地は新鮮だ。
人間は当然ながら、草も昆虫も見当たらない荒野。草原や耕地と比べれば、別世界のように異質だ。
「砂漠みたいな、場所はあるけど、こんなにも赤茶けた風景は、外国に行かないと、見れないかな」
「お、あるんですね」
「うん、道路とかは、整備されてる、けど……」
アゲハの脳裏にアメリカ西部のモニュメントバレーが浮かぶも、今回はあえて伏せる。相手が地球人ならば、具体としては適切だ。
「荒野に道路なんか敷いて、延々と歩くんですか? なんだかたくましいですね」
「あ、ううん、そういう人も、いるかもだけど、普通は、車かな?」
「あぁ、ものすごい速さで進む乗り物でしたっけ?」
「うん」
「服についてたファスナーにも驚かされましたけど、日本というか地球って進んでますよね」
エウィンの言う通り、ウルフィエナと地球を比較した場合、文明レベルには大きな開きがある。
搬送手段が台車やリヤカーのイダンリネア王国と、大型自動車や貨物機で物流に革命を起こした地球。その差は歴然であり、アゲハにとってもここはさながら中世時代だ。
もっとも、単純な比較は難しい。
なぜなら、王国は魔道具を作り出しており、電池や電気を用いず明かりを灯すばかりか、ギルドカードという記録媒体すらも発明してみせた。
「多分だけど、世界の在り様が、根本から少し、違うのかも……。だから、科学の発展が、ゆっくりなんだと、思う」
日本人のアゲハがそう思う根拠は、魔物や魔法、戦技に由来する。
地球には生息していない化け物。
ゲームやアニメのような特技。
それらが当然のように存在している以上、優劣の検討は避けるべきか。
「なるほど。だとしたら、僕達の体にも違うところがあるのかな?」
「どうかな? わたしは、少し混じってるかもだけど、日本人。エウィンさんも、他の人も、顔立ちは日本人に、近い気が、する……」
(少し混じってる? 含みのある言い方だけど、そっとしておいてほしいってことなのかな?)
エウィンを筆頭に、この世界の人間は人種というものを理解していない。そういった概念が存在しないのだから、当然と言えば当然だ。
「顔立ちと言えば、アゲハさんって美人さんだと思いますけど、どうしてモテなかったんですか?」
「ひえ⁉」
色んな意味でデリカシーのない問いかけだ。
アゲハとしても反応に困るため、意味不明な悲鳴をあげてしまう。
エウィンの言う通り、彼女は表情さえ暗くなければ美しい部類に当てはまる。黒髪を整えればさらに効果的だろう。
大学を中退後、三年間も引きこもった割には、太っていない。多少肉付きは良いものの、肥満とは言い難い。
しかし、異性と付き合った経験は皆無だ。恋愛感情を抱いたことすらなかった。
この世界に転生するまでは。
アゲハは子供の頃から内気な性格だった。
さらには、人付き合いそのものを避ける傾向にあったため、友達との思い出すらない。
胸の発育が早かったことから、自身に向けられる視線に恐怖を覚えてしまう。
孤独に耐えながらも学校には通い続けるも、大学卒業を前に心が折れてしまった。就職活動にて受けた圧迫面接が、彼女を傷つけた結果だ。
「言い寄る男も多かったでしょうに」
「そ、そんなことは、なかったよ。わたしなんて、全然……」
「ちなみに僕の場合、誰も寄ってこないどころか、僕から近寄ろうものなら蹴り飛ばされましたからね。あ、女性うんぬんではなく、大通りで開かれたパレードなんですけど」
城下町を東西に二分する、スラッシェ通り。正しくは十の字に敷かれているのだが、そのパレードは南から始まり北へ向かった。
「蹴られたって、どういう……」
「誰だったかは忘れましたけど、十年くらい前だったかな? 偉い人が大通りを凱旋したんです。みんな集まってワイワイしてたから、僕も見ようと思ったんですけど、浮浪者だってバレて摘まみだされたんです」
正しくは八年前のパレードだ。
王の崩御に伴い、娘が王位を継ぐ。
オデッセニア・イダンリネア。彼女は戴冠の一年後に大通りを歩くのだが、エウィンは治維隊によって近寄ることすら阻止されてしまう。
浮浪者とはそういう扱いだ。家の所有を認められないことからも、彼らは劣悪な待遇を強いられている。
傭兵は許可された数少ない仕事の一つであり、エウィンは稼げているだけ恵まれている方だ。
そうであろうと、社会の底辺であることは変わりない。
「そんな、ひどい……」
「さすがにあの時は泣きましたねー。今だったら、そっかー残念、くらいにしか思いませんけど」
成長したということか。
あるいは、己の境遇を諦めてしまったのかもしれない。
悲しむように笑顔を作るエウィンだが、対照的にアゲハは笑ってなどいられない。
「ゆ、許せない、許せない……」
「う⁉ あ、アゲハさん! 髪の毛が! と言うか、すごい殺気! あの時僕を蹴とばした治維隊の人より怖い!」
思わず説明口調になってしまう程度には、仰天してしまう。
なぜなら、温厚なアゲハからひりつくような殺意があふれ出した。
さらには、長い黒髪の先端がその青色をじわじわと広げ始めたことから、慌てずにはいられない。
エウィンは知っている。
彼女の髪が黒から青へ変化する現象は、人格が変化する兆候だ。
そのはずだが、今回はどういうわけか未然に終わる。
「え? わたし、いったい……。髪は、あ、元に戻った……」
髪の毛がリアルタイムで塗り替わる光景は、美しくもどこか不気味だ。
アゲハは自身の黒髪が本来の色を取り戻したことに安堵しつつも、戸惑わずにはいられない。
もっともそれは、エウィンとしても同じだ。
「ビックリしました。てっきり、暴力おばさんもといお義母さんが出てくるのかと。あー、名前、なんでしたっけ?」
「ネゼ、さん」
「そう、その人。いやはや、どうしようかと思いました。すごい迫力でしたねー、ミファリザドが近くにいたら、尻尾巻いて逃げ出したんじゃ……」
そう言いたくなるほどには、ひりつくような圧迫感だった。
エウィンが静かに驚く一方で、アゲハもまた、首を傾げる。
「やっぱり……。ネゼさんの、力……、大きくなってる。もう少しで、前みたいに、入れ替われる、かも……」
「へー、だとしたら便利ですね。あいつが襲ってこない限りは、そんな事態にはならないでしょうけど。なんたって、アゲハさんは僕が守りますので」
エウィンは胸を張って笑い出すも、ふざけているつもりなどない。
アゲハを庇って死ぬことが目的ゆえ、強敵との遭遇はむしろ本望だ。
もっとも、オーディエンとの再会は避けたい。父を殺した宿敵ゆえ、そういう意味でもいつの日か倒すつもりでいる。
そうであっても、今は時期尚早だ。
なぜなら、手も足も出せない。その魔物はそれほどに格上の存在だ。
少年の本心と覚悟を知りもせず、アゲハはモジモジと照れてしまう。
「わ、わたしのことを……」
「もちろんです。命の恩人ですし」
残念ながら、そのような認識だ。エウィンはこの日本人に対し、恋心を抱けない。
当然だ。いつの日か離れ離れになってしまう。
ましてや、死にたいと願ってしまっている。
胸を見たい、触りたいとは思うものの、それ以上の関係までは望まない。
この少年はそういう人間であり、その精神構造はいくらか壊れてしまっている。
守り抜きたいという感情は本物だ。
日本へ帰してあげたいという配慮も、嘘偽りない。
それでも、最優先は自身の死だ。母がそうしたように、自分も他者を庇って死にたい。この野心こそが生きる源泉であり、魔物が徘徊する土地にアゲハを同行させる理由でもある。
「さて、と。立ち話もなんですし、出発しましょう」
「あへぇ」
(また変な顔してる……。怒ったり涎垂らしたり、最近のアゲハさんって表情豊かだな)
アゲハを置き去りにしない程度の速さで走り出すも、砂埃が舞う荒野はどこまでも殺風景だ。ゴブリンや巨人族すらも寄り付かないという事実にも頷けてしまう。
もっともその理由は、ここに人間がいないためか。
無人ゆえに、今は二人っきりで独占している。ミファリザドとすら出会わないため、荒野の横断は順調だ。
ゆえに、それとの邂逅は必然だった。
真っ先に、エウィンが言葉を発する。
「むむ、もしや」
走りながらの、大きな独り言だ。
確信はまだない。
しかし、前方の大地に、どこまでも続く黒い線がついに現れた。
退屈な一本線ゆえ、地面に描かれた子供の落書きとも思えない。
ましてやそれは、長すぎる。その長さは百メートルや二百メートルですらない。地を裂くような長さゆえ、アゲハもついに反応を示す。
「段差? だとしたら……」
「はい、きっとそうです」
「楽しみ、だね」
逸る気持ちが、二人の速度を加速させる。
朝陽を背中で浴びながら、楽しそうに駆ける姿は子供のそれだ。
童心を失わず、されど魔物と殺し合う。傭兵とはそういう人種であり、二人もある意味では体だけが成長した子供だ。
「おぉ、間違いなかった。アゲハさん、これですこれです」
エウィンが立ち止まった理由は、これ以上進むと地の底へ落ちてしまうためだ。
錆び付いたような大地は、ここが行き止まりではない。
それでも、少年は次の一歩をためらってしまう。
荒野を引き裂くような、不気味な裂け目。幅そのものは人間がすっぽりと収まる広さながらも、延々と続くひび割れは目当てのもので間違いない。
「これが、ミファレト亀裂……」
四つん這いの姿勢で、アゲハもまた覗き込む。この旅路はこれを見るためのものゆえ、感慨深いに決まっている。
「確かにこれは大地の亀裂ですね。どこまで続いてるんだろう?」
「落ちたら、うん、無事では済まない、かも……」
恐怖を覚えてしまう程度には深い。
ましてや、この亀裂は狭いことから、落下時は確実に挟まれてしまう。
つまりは、身動きが取れない状況で負傷に苦しむ。もはや拷問の一種としか思えないことから、アゲハとしても亀裂を前に立ち上がれない。
一方で、エウィンはどこか冷静だ。
「確か、深いところでも二十メートルくらいだったような。だとしたら、落ちても僕達なら痛くも痒くもないかも」
残念ながら、その通りだ。
エウィンなら、せいぜいが擦り傷程度だろう。それほどに強くなったということだが、それゆえにこの少年は亀裂の縁に立って見下ろせている。
「宿屋より、ずっと高いから、さすがに危ないと、思う。エウィンさんなら、まぁ、うん、きっと大丈夫……」
「あー、そう考えると、二十メートルってけっこう高いのか。せっかくここまで来ましたし、ちょっくら落ちてみましょうか? 余裕で這い上がれそうですし」
「それは、さすがに……。それに、きっと汚れちゃうよ」
その程度では済まない。
衣服が擦り切れ、あちこちが破れるはずだ。リュックサックを背負ったままの落下ならば、中身の回収は絶望的だろう。
「それは勘弁です。ところで、こういう亀裂ってどうやって出来るんですかね?」
「雪山とかなら、説明出来るけど、ここだと、どうなのかな? 空気の乾燥と、水不足で、ひび割れたとか? でも、こんなに大きいと、そうじゃないのかも……」
「ミファレト亀裂は一個や二個じゃないみたいですし、不思議ですね。まぁ、見れて良かったです。来たかいがありました」
教科書にも、その理由は記載されていない。
つまりは解明されておらず、いかに日本人であろうと考えたところでわからずじまいだ。
「落ちないよう、気を付けないと、だね」
「そうですね」
満足したのか、アゲハがゆっくりと起き上がると、豊満な胸を揺らしながら、ズボンの汚れをパタパタと叩いて落とす。
対照的に、エウィンは深い亀裂を覗き込んだままだ。淡々と相槌を打ったものの、少年の口は動き続ける。
「ケイロー渓谷の大穴の方が、何と言うか、迫力が、その……」
本音であっても言い淀む。この亀裂を見つけられたこと自体は嬉しいのだが、これ以上の謎と出会ったばかりゆえ、トーンダウンは避けられない。
「そ、そうだね……」
「これはこれで悪くはないんですけど、見る順番を間違えた的な? まぁ、でも、一つ賢くなれた気がします、うん」
観光はこれにて終了だ。
これ以上の感想が出ないのだから、帰国という選択肢を選ばなければならない。
そのはずだが、荒野の中心でアゲハが新たな目的地を提案する。
「エルディアさんから教わった、森に行ってみる?」
「あー、なんかしつこく言ってましたね。むしろ行けみたいな感じで」
「うん、場所は確か、ミファレト荒野の南西……」
走ればあっという間だ。急ぐ必要はないため、数日かけて徒歩で向かっても良いのだが、砂埃が舞う大地で野営などしたくない。
「森の名前って何でしたっけ?」
興味がないため、エウィンは覚えていない。
エルディアと三人で活動していた頃、彼女は何度もその森について触れていた。
「迷いの森、だよ」
帰国は一旦、後回しだ。
アゲハの提案が、少年を新たな土地へ誘う。
彼らはまだ知らない。そここそが、二人にとっての新のゴールだ、と。
運命が交わる時。
思惑が交錯する時。
エウィンとアゲハは、ついに出会ってしまう。
巨大な亀裂をぴょんと飛び越え、二人は再度走り出した。
迷いの森。誰も寄り付かない、未開拓の領域。