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【現実世界・聖環医療研究センター/第七特別病棟】
七海の病室を出た瞬間、空気の密度が変わった気がした。
廊下の白い床が、ほんの一瞬だけ石畳みの質感に“ずれる”。
すぐに戻る。けれど、その残像が目の裏に貼りついた。
「……時間、押してきてるな」
木崎が小声で言う。腕時計をちらりと見た。
「次の巡回まで、あと二十分ちょっと。ここで引き返すならギリ。
──だが」
「戻らない」
ハレルは即答した。
手の中のケースが、じんじんと熱を帯びている。
青、空になった琥珀、空になりかけた桃色──そして、薄緑の光が一つ。
日下部奏一のコア。
「ここまで来て、“三人目だけ後回し”とか、絶対に後悔します」
木崎は小さく息を吐き、苦笑とも諦めともつかない顔をした。
「分かってる。聞き方が悪かったな。
……よし。七〇七号室まで、一気に行く」
二人は足音を吸い込むように静かな廊下を進む。
《707 日下部 奏一》
目的のプレートの前で、二人は立ち止まった。
「入るぞ」
木崎がドアノブにそっと手を掛ける。
鍵は掛かっていない。
静かに押し開けると、白い部屋の匂いが流れ出てきた。
◆ ◆ ◆
中は、他の二人と同じようで、少し違っていた。
モニターの数が多い。
脳波、心拍、血中酸素、よく分からない英数字のグラフ。
ベッドサイドには、小型の機械がいくつも連結され、
日下部の頭には薄いメッシュ状のキャップがかぶせられている。
「……これ、前に話してた“拡張インターフェース”ってやつですかね」
ハレルが呟く。
かつてのプロフィール──フリーのエンジニア。
脳波と外部デバイスを繋げる研究のテストに関わっていた、
という断片が頭をよぎる。
日下部奏一は、痩せた顔で静かに眠っていた。
佐伯や七海と同じく、安らかすぎるほど整った寝顔。
「……三人目か」
木崎が小さく言う。
「こいつの“器”に何が仕込まれてるか……正直、一番読めない」
ハレルはケースを胸の前で固定し、ゆっくりと蓋を開けた。
青い光がわずかに揺れる。
薄緑のカプセルが、それに呼応して強く脈を打った。
「反応、さっきより……」
「荒いな」
木崎も、腕の産毛が逆立つのを感じる。
「ノノが言ってた“第三ピーク”ってやつだろう。向こうも、もう覚悟決めてる」
ハレルは頷き、スマホを取り出した。
画面の中で、セラのアイコンが淡く光る。
「──セラ。聞こえる?」
ほんの一瞬、ザザ、とノイズ。
次の瞬間、澄んだ声が返ってきた。
《聞こえるよ。こっちはオルタ・スパイアの下。
アデルとリオ、それからノノも準備できてる》
「第三ピーク、やります。……今、日下部さんの部屋にいる」
《分かってる。そっちの揺れ、“こっちからも”感じる》
画面が、ぐっと暗くなった。
《説明は短くね。時間、あんまりないから》
「お願いします」
《条件は、さっきと同じ。
・器の近くまでコアを持っていく
・主鍵は、その“すぐそば”
・こっちでは腕輪と塔で、境界の幅を最低限まで狭める
違うのは──》
声色がほんの少しだけ硬くなる。
《“敵も、このタイミングを狙ってくる”ってこと》
「……もう来てるのか」
《来てる。塔の外に、“黒ローブ組”が三人。
でも、こっちから動きを止めるのは難しい。
だから──》
セラが、はっきりとハレルに言う。
《わたしたちは“開ける側”、あいつらは“横取りしようとする側”。
勝負は、ほんの数十秒。
その間、絶対にコアから手を離しちゃダメ》
「分かりました」
《それから、もう一つ》
セラが小さく息を吸う。
《三人目は、二人目までと“感じが違う”はず。
反応が暴れたら、一度だけ“引く”余裕も持っておいて》
「──でも、引いたらもう二度目は」
《うん。だから、“一度だけ”。
それでも続けるかどうかは──こっちとそっちで、瞬間で決める》
背後で、ノノの声が飛び込んだ。
《ハレル!
こっちの計測だと、あと五分半で第三ピークの“谷”に入る!
そこを逃すと、次はもう“塔側の実験波形”が強すぎて、まともに合わせられない!》
「……五分半」
ハレルは日下部の顔を見た。
痩せているが、頬の線は意外と頑固そうだ。
「やります」
短く、確かに答える。
《了解。
こっちは全員、“支える側”に徹する。
……頼みます、観測者》
木崎が、静かに息を吐く。
「第三の座標ってわけか」
「はい」
ハレルはネックレスを握り、ベッドサイドに一歩近づいた。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/オルタ・スパイア周辺】
塔の根元に、黒い影が三つ、等間隔に立っていた。
同じ形のローブ。
顔を隠すフード。
だが、それぞれの足元から立ち上る靄の色が、微妙に違う。
一人は、煤のような灰。
一人は、墨のような黒。
もう一人は、鉄錆を溶かしたような赤黒。
「……出たな」
アデルが剣を構える。左腕の腕輪が、痛いほど脈を打った。
リオも右手首を押さえ、息を整える。
背後には、数名の警備局員が円陣を組むように位置を取っていた。
塔の上部が、低く唸るように震えた。
第三ピークの立ち上がりが始まっている。
中央の黒ローブが、口元だけを覗かせて笑った。
「今日の君たちは、“支える側”か」
声は変調されているのか、やけに平板だ。
「カシウスは、塔の方か」
アデルが冷静に問う。
ローブの影が、わずかに肩をすくめる。
「主は主の仕事をしている。
ボクたちは、“揺れを増幅させる側”さ」
その足元から、じわ、と黒い線が走った。
地面に、見えない円が描かれていく。
「リオ。ノノの指示通り、“縫い止める”ぞ」
「分かってる!」
リオが右手を掲げる。
「〈閃鎖・三点〉――起動!」
白い線が三本、塔の周囲に走り、見えない結界の輪郭を描いた。
アデルの剣先からも、封鎖の杭が追加で打ち込まれていく。
ローブの一人が、くつくつと笑った。
「三つの座標。
塔、病棟、そして──ボクたち」
「……病棟側にも何か仕掛けたのか」
リオの声が、低くなる。
「さあ? それは“サロゲート”の仕事だよ」
その名を聞いた瞬間、塔全体の揺れが一段階増した。
ノノの声が、イヤーカフから飛び込んでくる。
《二人とも! 第三ピーク、立ち上がった!
“病棟側”も同時に来てる! これ以上は、揺れを広げさせないで!》
「聞こえている」
アデルは視線をローブから外さないまま、短く返した。
「ここは通さない。
……何としてでもだ」
剣が、塔の光を受けて一瞬だけ白く光る。
◆ ◆ ◆
【現実世界・第七特別病棟/707号室】
モニターの音が、一段階高くなった。
ピッ、ピッ──。
日下部の心拍が、さっきまでよりわずかに早い。
「始まってる」
ハレルは、薄緑のカプセルをそっと持ち上げた。
ケースの中で、青い光がじっと見ているみたいに揺れる。
「ハレル。
念のため、もう一回だけ確認するぞ」
木崎の声は、妙に落ち着いていた。
「こっちの目的は、“三人分の器に意識を戻す”こと。
ただし、少しでも“乗っ取り”や“横取り”の気配が強くなったら、即座に切る。
いいな」
「はい」
「その瞬間に、俺が“鍵”を叩き落とす。
お前は、絶対に無理に繋げようとするな」
ネックレスが、胸の前で冷たく光った。
「……分かってます」
ハレルはベッドのそばに立つ。
日下部の顔が、間近にある。
コアを、胸元の上にそっと滑らせる。
鼻先が触れるほどの距離で、彼を見下ろす。
(帰る場所は、ここだ)
その瞬間。
病室の空気が、ぐにゃりと曲がった。
白い天井に、石造りのアーチが薄く重なる。
蛍光灯の光が、魔術灯の揺らめきと二重写しになる。
「……来た」
木崎が低く言う。
「やるなら、今だ」
ネックレスが、じりじりと熱を増した。
ハレルは、左手で主鍵を握りしめ、右手のコアを日下部の胸の上にかざす。
指先と、ガラスの表面が触れ合う。
薄緑の光が、爆ぜた。
モニターの波形が一斉に跳ね上がる。
床の白線が、石畳の目地と重なり、壁越しに、遠い塔の鼓動が響いた気がした。
(──繋がる)
ハレルは、歯を食いしばる。
日下部奏一の胸へ。
オルタ・スパイアの塔へ。
そして、カシウスがどこかで見ているであろう“第三の視線”へ。
三つの座標が、同じ一点に向かって、線を描き始める。
「……っ!」
カプセルの光が、器の中へと吸い込まれていく。
その瞬間、病室の床の端──ベッドの足元あたりに、
ごく小さな、黒い“ひび”が生まれた。
――気づく暇もないほど、細いひびだった。
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