テラーノベル
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【現実世界・聖環医療研究センター/707号室】
床の端に生まれた黒い“ひび”が、
じわり、と音もなく広がった。
ベッドの足元。
リノリウムの白が、細い線を境に、
墨をこぼしたみたいに暗く沈んでいく。
「……来てるな」
木崎が低く言う。
モニターの心電図は乱高下し、
その裏で脳波のグラフが一度、すっと細くなった。
(佐伯さんと、村瀬さんのときと……“質”が違う)
ハレルは、日下部奏一の胸の上にコアをかざしたまま、
じりじりとした熱を掌でこらえた。
薄緑の光。
そこに、別の色が混ざろうとしているのが、感覚でわかる。
スマホ画面の中で、セラの顔がしかめられる。
『……ハレルくん、コアのベクトルが二重になってる』
「二重?」
『うん。一つはちゃんと“奏一くんの器”を指してる。
もう一つが、下方向。床の向こう側に“落ちたがってる”』
床のひびが、ベッドの真下まで伸びた。
《……三本目の観測線が、勝手に混ざってる》
ノノの声が、セラ越しに飛び込んでくる。
《こっちの塔と、そっちの病棟と――
それから、“名札のないコア”から引かれてる線。
それが、今まとめて日下部君の器に向いてる!》
「……レアに盗られたやつ……」
ハレルの喉が鳴る。
《そう。あれを、第三の“管理プロセス”として突っ込もうとしてる!
このまま続けると――》
言葉の途中で、日下部の体がびくん、と跳ねた。
モニターの音が、耳障りなまでに高くなる。
「離せ、ハレル! 一回切る!」
木崎が叫んだ。
ハレルは、コアを引き離そうと腕に力を込める。
だが、ネックレスの主鍵が、カプセルの光と細い糸で繋がれたみたいに、
ぎち、と抵抗を返してきた。
(離れない……!)
「無理に引っ張るな!」
木崎がハレルの手首を掴み、肩ごと引き寄せた。
バチッ。
金属が弾けるような痛み。
ネックレスの鎖が一瞬だけ白く光り、ハレルの胸元に熱い痛みを走らせた。
コアが、手から離れてふわりと浮く。
今度は自分から、日下部の胸の上へと落ちていった。
「……っ!」
薄緑の光が、皮膚に沈む。
同時に、床のひびがぱかりと割れた。
白い病室の床と、見知らぬ暗い空間が、薄い膜一枚で重なったように見える。
向こう側には、数字みたいな光の粒と、黒い霧の層。
《最悪パターン来た……!》
ノノの声が、ほとんど悲鳴だった。
《コアの“主体権”が奪われてる!
日下部君の意識と、盗まれたID-05をまとめて、
どこか“第三の座標”に持って行こうとしてる!》
「止められないのか!」
木崎が吐き捨てる。
《今、こっちも押し返してる!
でも、完全に引き戻そうとすると――
病棟側の座標が一気に崩壊する!》
ハレルは、ベッドを見た。
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#探偵
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上野文
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日下部奏一の胸が、大きく上下している。
表情は苦しそうなのに、瞼は固く閉じたまま。
「……日下部さん!」
呼びかけた瞬間。
目が、開いた。
真っ黒だった。
白目がない。
黒い穴だけが、ハレルたちを映さないままこちらを向く。
「……座標、確認」
口元が、誰でもない声で動いた。
一人分の声量なのに、耳には複数の音程が同時に届く。
「“器”――安定。
“観測者”――接続済み。
あとは、“場”だけだね」
「お前は……誰だ」
木崎が、一歩踏み出した。
声が自然と、刑事だったころの調子になる。
黒い目が、ゆっくりそちらを向く。
「ボク?」
日下部の口から、軽い響きがこぼれる。
「ボクは、ラベルいらないや。
“中身の方”が大事でしょ?」
次の瞬間。
ベッドごと、床が沈んだ。
金属フレームが、きしむ音もなく暗闇に飲まれていく。
シーツ。配線。モニターに繋がるコード。
全部、黒いひびの向こう側へ滑り落ちていく。
「待て!」
木崎がベッドの柵を掴んだ。
だが、指先が滑る。
柵の金属が、一瞬にして“向こうの材質”に変わった感触がして――
手応えそのものが消えた。
ハレルは、反射的に主鍵を握った。
(引き戻す――!)
ネックレスから、細い光が走る。
黒いひびの縁に、白い杭みたいな模様が瞬時に刻まれた。
《ダメ! そこまでやると、病棟側の“床”ごと持っていかれる!》
ノノの叫びが飛び込んできた。
《703と705の器も巻き込まれる!》
「……っ」
(佐伯さんと、村瀬さんまで――)
ハレルは、ぐっと歯を食いしばり、指を緩めた。
ひびの中。
日下部奏一――だったものが、最後にこちらを一瞥した。
黒い目が、さっと細くなる。
「うん、いい判断。
“二人分”は、ちゃんと守ってね」
多重の声が、愉快そうに笑った。
ぱしん、と音がした。
床が閉じた。
病室の空気が、一気に静かになる。
モニターは、接続を失って一斉にエラー音を鳴らし始めた。
ベッドは、なかった。
日下部奏一の器ごと、跡形もなく消えていた。
ハレルの足が、勝手に一歩、そこへ踏み出す。
残っているのは、薄く焦げた円形の痕だけ。
(守れなかった……)
胸の奥が、冷たく沈む。
だが、その沈み込みを押しのけるように、別の感覚が追いついてきた。
――703号室と705号室の方角から、微かな“気配”が続いている。
佐伯蓮。村瀬七海。
あの二人の器からは、まだ静かな、しかし確かな脈動が感じられた。
《……ごめん》
ノノの声が、小さく落ちてくる。
《こっちも、ぎりぎりまで詰めたけど……
三人目は、“向こうの条件”が多すぎた》
「謝るのは、まだ早い」
木崎が、息を吐く。
「二人は守れた。
日下部の件は――」
言いかけて、飲み込んだ。
「あとでまとめて、ケリをつける」
その言葉と同時に、病室全体が、ぐらりと揺れた。
白い壁の一部が、一瞬だけ石造りの塔の内壁に変わる。
窓の外には、夜の都心ではなく、黒い丘の稜線がちらりと重なって見えた。
すぐに戻る。
だが、空間そのものが“薄くなった”感覚だけは残った。
《……病棟周辺、しばらく境界めちゃくちゃになる》
ノノが乾いた声で言う。
《塔側も同じ。
これが、“器の座標を無理やり重ねた”代償》
「後でいい。状況はあとで聞く」
木崎が短く遮った。
「今は――ここから生きて出ることを考える」
廊下の方から、足音が近づいてくる。
看護師たちの靴音。
機械のアラームに気づかないはずがない。
ハレルは、焦げ跡を最後に一瞥してから、主鍵を握りしめた。
(日下部さん……絶対、取り戻す)
言葉にはしなかった誓いが、ネックレスの内側で微かに脈を打った。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/オルタ・スパイア周辺】
塔の根元に刻まれた焦げ跡の一つが、ぱきん、と割れた。
そこから伸びていた黒い線が、空へと伸び――
すぐに、途中でぷつりと切れる。
「……今の、“三人目”だな」
アデルが呟いた。
左腕の腕輪が、鈍い痛みを返している。
リオは、右手首を押さえたまま、息を吐く。
「感じた。
誰か一人分の“道”が、強引に書き換えられた」
彼らの周囲では、黒ローブの三人がまだじりじりとにじり寄っていた。
その背後には、塔にまとわりつく黒い靄。
ノノの声が、イヤーカフ越しに震えている。
《703と705は、こっちと病棟側で“ロック”できた。
でも――707は、完全に“別ルート”へ引き抜かれた》
「器ごと、か」
アデルの問いに、ノノは短く息を呑んだあと、肯定した。
《うん。
現実側のベッドも一緒に“落ちた”感触があった。
あれはもう、ただの行方不明じゃ済まない》
リオは、唇を噛む。
(日下部さん……)
黒ローブの一人が、かすれた声で笑った。
「三つ目は、“こちらの実験場”へ。
鍵とコアと器が揃った場――
ボスの本番ステージだ」
「うるさい」
アデルの剣先から、白い光の線が走る。
〈封縫〉の紋が、塔の足元に新たに刻まれた。
「ここは、渡さない。
少なくとも、“残り二人分の座標”だけは」
リオもまた、右手を掲げる。
「……ハレル」
小さく名前を呼び、魔術式を組み上げた。
「こっちは、守り切る。
そっちは――生きて出ろ」
塔の周囲で、光と影が再びぶつかり合う。
◆ ◆ ◆
【現実世界・聖環医療研究センター/駐車場】
駐車場のアスファルトの上に、小さな炎の輪がいくつも咲いた。
車のすぐ横。
街灯の足元。
コンクリのひびをなぞるように、赤橙の火が円を描く。
「動かないで」
城ヶ峰が静かに言い、サキの肩をぐっと引き寄せた。
二人は軽バンの影に身を沈める。
サキは、ただならぬ熱気に喉を鳴らした。
「な、なに……これ……」
「普通じゃないものだ」
城ヶ峰の声も固い。
「見えるってことは――君も、少し“こっち側”なんだろう」
炎の輪の中心に、黒い影が立っていた。
深灰の森で死んだはずの青年の姿。
だが、胸には異様な光を放つ板が埋め込まれ、目は真っ黒。
「うん、いい感じ。
境界、かなりゆるゆるだね」
“代用(サロゲート)”は、楽しそうに周囲を眺め回した。
「ボクの役目は、ノイズ足しと“目印”。
――〈焼痕標(ブレイズ・マーカー)〉」
指先から、ひとつの火球が滑り落ちる。
それは車の少し手前で止まり、音もなく地面に貼りついた。
ジュッ。
アスファルトが、黒く焼き抜かれていく。
円形の焦げ跡。
その縁から、細い黒いひびがじわりと放射状に伸び始めた。
「やめろ」
城ヶ峰が思わず前に出る。
腰のホルスターに手が伸びかけ――しかし、ぎりぎりで止まった。
(撃ったところで、これが“人間”かどうかも怪しい)
「君が、木崎さん?」
“ボク”が、首をかしげる。
「いや、違う」
「あれ?ああそうか、木崎さんは中か」
「では、君は?」
「だれでもいいだろ、とりあえずお前にとっては”敵”だ」
「ふーん、木崎さんの同類って感じかな」
視線が、サキに移る。
「で、君が――妹ちゃん」
「……お兄ちゃんの、知り合いなの?」
サキが震えた声で聞く。
「知り合い……かなぁ?
ボクは初めましてだけど、ボスはよく見てるよ。
“鍵持ちの周辺”はね」
その時だった。
駐車場全体が、横に滑ったように揺れた。
サキの視界に、一瞬だけ“二つ目の景色”が重なる。
白い病院棟の代わりに、黒い丘と細い塔の影。
街灯の代わりに、青白い魔術灯。
「……っ!」
すぐに戻る。
だが、足元の感触が違う。
アスファルトが、石畳のように硬く感じられた。
“ボク”が、顎を上げた。
「お、始まったね。
三人目の座標合わせ」
胸のプレートが、一度だけ強く光った。
どこか遠くの方と、何かが繋がった感覚が走る。
「……うん、取れた取れた。
“日下部奏一”の器、搬入完了」
ぽん、と軽く胸を叩く。
「じゃ、ボクの仕事はここまで。
あんまり近くにいると、巻き込まれそうだし」
城ヶ峰が、歯を食いしばる。
「日下部……だと?」
問いは、最後まで届かなかった。
“ボク”の足元の炎の輪が、一気に高さを増す。
火柱が立ち上がり、その中に黒い影が溶けていく。
「またね、妹ちゃん。
ボク、君のお兄ちゃんとも、すぐ会うと思うから」
多重の声が、炎の中から軽く手を振る。
次の瞬間、火も影も、焦げ跡だけを残して消えた。
静寂。
サキは、膝が笑うのを必死でこらえた。
「今の……」
「後で説明してもらう」
城ヶ峰は、焦げ跡を睨んだまま言った。
「だがまずは――中の二人を、生きて連れ出す」
駐車場の遠くで、救急車のサイレンが小さく鳴り始めていた。
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