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新宿蕎麦処・当たり屋鈴に立つゆり野は、不安げな表情で、客の反応を確かめていた。
「ど、どうぞ…」
磯貝と絢香の前に出されたどんぶりからは、やわらかな匂いが広がっていて、 ほんのりと鼻をくすぐるゆずの香りが食欲をそそる。
真っ白などんぶりの中、褐色のスープに浮かぶ黄色い玉子焼きと甘辛煮の椎茸。
白髪ねぎはキラキラと漂って、不揃いな竹輪と仲睦まじく絡み合っている。
ふたりの反応を気にかけながらもゆり野は、すぐさま厨房へと引き返し、吹きこぼれたガス周りの掃除を始めて、気づかれない様に表の看板の電気を消した。
それは、店を開けてる自信もなかったし、正直、早く眠りに就きたかったからだ。
店内に流れる古典落語の台詞を覚えてしまう程、幼い頃からこの店に通っていたのに、いざ仕事となると何も出来ない自分が惨めだった。
所々、タイルが剥がれた床をブラシがけしながら、今にも泣き出しそうに…というか泣いていた。
その時、テーブル席から声がした。
「美味いっ!」
その言葉を受けて、ゆり野はまた泣いた。
磯貝と絢香は、蕎麦つゆの奥深い味わいに感動して、思わず『美味い』と声に出してしまった。
さっぱりとした旨味が、舌の上にはりつく。
ゆずのアクセントがそれを爽やかに流してくれる。
磯貝は厨房のゆり野に声をかけた。
「めちゃくちゃ旨いよ! 若いのに凄いなあ!」
「あ、ありがとう…ご、ごじゃい…」
ゆり野の涙腺は崩壊した。
おいおい泣きながら、ブラシをかけるのが精一杯だった。
気まずくなった磯貝は、
「いやあ、このどんぶりもピカピカで綺麗! 食べ物は器が命って言うけど最高だよ。多少中身が不味くったって。いや、違うよ、この店は旨いよ!あははは…」
早口で捲し立てる磯貝を見て、絢香が、
「私、細めの蕎麦大好きなんだ。早く食べよ。のびちゃうよ」
ふたりは蕎麦を勢いよく啜った。
小気味好い音が店内に響き渡る。
ゆり野は、パンパンに泣き腫らした顔をふたりに向けて、頭を下げながら言った。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
ゆり野の心は、ゆっくりと和らいでいた。