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#恋愛
水羽凛
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#医者
GUMI。
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安西先生との同棲生活もあっという間に半年が過ぎた。
私たちは遅めの夏休みを取って紅葉を見に日光へ旅行に出かけることになった。
旅行と言っても二泊三日のプチ旅行だけれど、先生と遠出するのはこれが初めてのことになる。
前日の夜、私は小型のキャリーバッグに旅行用の荷物を詰め込んでいた。
二十一時だというのに先生はまだ帰宅しない。
夕方、救急搬送されてきた患者の手術がまだ終わらないのかもしれない。それならと私は先生の着替えや髭剃りなどの日用品をバックパックに入れていった。
短い国内旅行だし、足りないものがあれば現地調達すればいい。
「遅いなぁ……明日早起きしなくちゃいけないんだけど」
リビングの掛けてある時計を見ると、午前零時を過ぎてしまっていた。明日は新宿から7:31に出る特急列車に乗る予定で、駅までのタクシーも予約した。
まさかこのまま帰ってこないなんてことが――!?
翌朝、先生が隣に寝ていないことで覚悟はしていたつもりだった。
スマホを見ると先生からLINEのメッセージが来ている。
《ごめん、絢香。旅行へはいけない。俺抜きでゆっくりしてきて。またあとで連絡する。まじでごめん》
送信してきたのは明け方。
オペが終わって患者さんの経過をみながら仕事をこなして仮眠したらこの時間だった。そう推測できる。
仕事なら仕方がない。患者をほったらかして旅行に来るような先生は好きではない。
でも、
「“俺抜き”じゃ意味ないんだけどな……」
この旅行は私が計画して、料金も私が支払った。
というのも先生と暮らすようになってから生活費のほとんどが先生持ちで事あるごとにプレゼントもしてくれる。家事だってできる限りのことは進んでしてくれていた。
だから私はお礼も兼ねてこの旅行を計画したのに。
「…………ま、いっか。お礼ならまたいつでもできるし。せっかくの旅行だし、楽しんでこよう」
私はそう自分に言い聞かせ、マンションのエントランスからタクシーに乗り込んだ。
「新宿駅までお願いします」
新宿駅に着くと構内のコーヒーショップで買ったコーヒーを啜りながら特急列車のホームで電車が来るのを待つ。
平日ということもあり、観光地へ向かう列車はおもった以上に空いていた。
指定席に座り座席のポケットに入っていたフリーペーパーを手に取る。パラパラとめくっていると“女子旅”という見出しが目に留まった。
「日菜を呼んだら来るかな」
ホテルも二人で予約しているからひとりで泊まるのも寂しいし、一泊だけでもいいから遊びに来れないだろうか。
私は手帳を取り出すと挟んである勤務表を広げた。けれど、彼女は今日日勤で翌日は準夜勤の予定だ。流石に旅行に連れ出すわけにもいかない。
「だめか……ん? もしかして河原さん夜勤明けの二連休じゃない!」
河原さんの勤務をよくみてみると彼女は今日夜勤明けで明日から二連休になっている。表記をみると希望休でもなさそうだ。
だからといっていきなり誘ったら迷惑だろうか。プライベートで仲良くしているわけでもない。
――でも声をかけるくらいいいよね?
彼女のことだ。嫌ならきっぱりと断ってくれるだろう。
私は河原さんにメッセージを送った。電話番号しか知らなかったのでショートメールだ。
「突然誘ったりしでごめんなさい。よかったら返事ください、と。これでよし! 夜勤が終わったら見てくれることを願って……」
列車が日光駅に着く頃、河原さんから返信があった。
《今から行きます!》
「え、本当に? 来てくれるの!?」
スマホの画面を見て驚いた。自分から誘っておいてなんだが、本当に来てくれるなんて意外だった。
到着は午後になるらしく、私は駅の周辺を散策しながら暇をつぶした。
川に架かる橋を渡り川沿いを歩。く天候に恵まれて日差しは出ていたものの都内よりも気温が低く厚手の上着を持ってきて正解だと思った。
「お腹すいたな」
お昼ご飯は河原さんと食べようと思っているのでお饅頭やコーヒーを飲みながら小腹を満たす。
河原さんの乗る列車の到着が近づき、私は改札口付近で彼女を待った。
「あ。河原さ~ん!」
彼女の姿を見つけてひときわ大きな声を出す。観光地にひとりで居ることが寂しかったのもあり、河原さんが来てくれてひときわテンションが上がってしまった。
「竹光さん。声大きい」
やや小走りで私のもとへ駆け寄った河原さんは少し迷惑そうにそういった。
「ごめん、ごめん。河原さんの顔見たら嬉しくなっちゃって。夜勤明けなのに来てくれてありがとう。あ、これ電車賃」
忘れないうちにと用意していた二千円を渡す。すると河原さんは「受け取れませんよ」とい首を振る。
「どうして?」
「どうしてって、私が来たくて来たんですよ。それに、ホテル代もタダだなんて言われたらこれくらい出させてもらわないと申し訳ないですよ」
「だから電車賃は頂きません」そう言って私の手を握らせる。と同時に竹光さんのお腹がぐうーと鳴った。
「聞こえました?」
お腹を押さえながら河原さんが言う。
「うん。聞こえた。仕事終わって急いできてくれたんでしょ? ご飯食べに行こうか」
「はい。行きましょう。お腹ペコペコで倒れそうです」
駅前のロータリーでタクシーに乗ると東照宮の近くで降りる。そこから歩いて人気だという地元食材を扱うレストランへ向かった。昼の時間を過ぎていたこともあり、すぐに中へ入れた。
席に着くと私たちはお勧めの湯波の懐石料理を注文する。
「河原さん。今日は来てくれてありがとう」
温かいお茶をすすりながら改めて河原さんへお礼を伝えた。
「こちらこそ、お誘いありがとうございました。連休は暇を持てあますところでした。でも、私が来ちゃってよかったんですか?」
「いいのいいの」
「安西先生、夜中に慌てて帰っていったのに……結局旅行は断念したんですね」
「夜中に帰った?」
「はい。なんだかずっとスマホ気にしててオペ患の指示を出し終えたらすぐに病棟からいなくなりましたよ」
「……そうなんだ」
先生は家には帰ってきていない。河原さんの口ぶりでは院内からいなくなったようだし、じゃあいったいどこへ行ったっていうの?
不穏な空気を察したのか、河原さんは急いでこう付け加える。
「……ああ、ええと多分私の勘違いです。帰ったと思ったけど医局か仮眠室で寝てたのかも。あはは」
「あ、ははは。きっとそうだよ」
なに笑っているんだろう私。河原さんも“余計なこと言っちゃったな”って顔するのはやめて欲しい。
でももし先生が院内にいたのなら今頃病棟で仕事をしているはず。それは日菜に聞けばわかることだけど……。
「お待たせしました。湯波御膳です~」
注文した料理が運ばれてきて私はスマホをバッグにしまった。
日菜に連絡して、先生がいるかどうか確かめて、万が一出勤していないことがわかったら旅行どころではなくなる。かといって河原さんを誘っておいて彼女を置いて帰るわけにもいかない。
それ以前に私の知っている先生は私を悲しませるようなことは絶対にしない。そう信じている。
「……すごい。おいしそうだね。食べよう、河原さん!」
とにかく今はこの旅行を楽しむことだけを考えよう。だって、じたばたしても真実は変わらない。帰ってから先生に直接確かめればいい。きっと杞憂に終わる。そんな気がした。
「そうですね。いただきます」
湯波をアレンジした料理や山菜の天麩羅。特産品だという蕎麦とイチゴのデザート。おなかが空いていたこともあり、あっという間に平らげてしまった。
「ごちそうさまでした。おいしかった~」
笑顔で手を合わせると河原さんもホッとしたように笑ってくれた。
「本当に。美味しかったです。湯葉って京都のイメージでしたけど、日光にもあるんですね」
「そうなの。京都は湯葉。日光は湯波って書くの。豆乳の膜の引き揚げ方にも違いがあってね……」
旅行雑誌で得た知識を披露すると河原さんはぽかんと口を開けて私を見ていた。
「やだ、ごめん! 興味なかったよね。語っちゃったりして恥ずかしい」
紅潮しているであろう頬を手でパタパタと扇ぐ。
「いえ、勉強になります。ていうか、竹光さんてこういうこと熱心に語るようなタイプじゃなかったですよね」
河原さんは興味深そうに私の目をじっと見つめる。
「そうかな……?」
自分的には何も変わっていない気がするけど。
「安西先生の影響ですか?」
「え、まさか……って、待って! いまさらだけど私、先生と付き合ってるってちゃんとは話してなかったよね?」
お互い周知の事実として話を進めていたけれど、私は彼女に安西先生と付き合っていると伝えていなかった。
「はい。でも私は分かってましたよ」
「あ、はは。そうだよね。さすが河原さん」
河原さんの洞察力には敵わない。まあでもそんなところが彼女の看護師としての強みでもある。
「話し戻しますけど、安西先生って基本お節介じゃないですか。聞いてないのにあれこれ説明はじめたり、スタッフ集めて飲みに行ったり、で金欠だって騒いだり。退院していった患者さんの事いちいち気に掛けたり……あ、これ褒めてますからね」
「う、うん。わかってる。それが彼のいいところでもあり、悪いところでもあるんだけど……」
半分悪口のような気もするけれど、全部事実だ。
「私、先生と似てる?」
「はい、すごく。でもいいと思いますよ? 相性がいいんですよ、竹光さんと先生は。私も影響されちゃうくらい素敵な人と出会ってみたいです」
河原さんはそう言って遠くを見つめるとかすかにため息を吐いた。
きっと出会えるよ、なんて私が言える立場ではないけれど彼女ならきっと素敵な男性と巡り合える気がする。
「さ、お参りに行こう! 東照宮ってパワースポットっていうじゃない。よいご利益貰ってこよう」
ガイドブックによれば、恋愛成就にもよいらしい。
「そうですね。行きましょう」
会計を済ませると店を出て、東照宮へと向かった。
木々に囲まれた参道は日常から切り離されたような空間で、緑に浄化された清らかな空気が流れている。
大きな鳥居をくぐり、拝観料を収めて奥へと進み陽明門を仰ぎ見た。
「すごい……」
それからしばらくは言葉が出なかった。巨大な門にはたくさんの細かな装飾がびっしりと重なり合っている。
龍なのか麒麟なのか、いや、鳥か……。
じっくり見ていたら時間がいくらあっても足りないくらいだ。安西先生にも見せてあげたかった。
「竹光さん? そろそろ行きましょう」
河原さんに肩を叩かれて慌てて前を向いた。夢中で上を見上げていたせいか首が痛む。
「そうだね、行こう」
それから私たちは有名なスポットを巡り、日暮れ前に今日の宿へと到着した。
中禅寺湖畔に佇む外資系のホテルだ。
チェックインの時に大切なことに気付いてしまった。
「予約した部屋ベッドひとつしかなかったはず……ですよね?」
「はい。ご予約されて椅子のはキングサイズのベッド、おひとつだけのお部屋でございます」
いくら大きなベッドでも河原さんに私と寝てなんて言えない。申し訳なくて。
「あの。今からダブルの部屋に変えていただくことって可能でしょうか? もし難しければこのままで構いません」
迷惑なお願いだということは承知している。けれど、ダメもとで言うだけ言ってみた。
フロントスタッフの女性は「確認いたします」といいパソコンの画面に視線を写す。
「ダブルルームにご変更可能ですが、レイクビューではなくなってしまいます。よろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫です!」
予約する時に確認したが、ほかのどの景観でも悪くなさそうだった。
チエックインを済ませ、私と河原さんは部屋へと向かった。ダークトーンを基調とした落ち付いたインテリア。
「素敵なお部屋ですね」
言いながら河原さんはベッドにダイブする。
「すみません、竹光さん。私少し休みます……」
「大丈夫? お水とか飲む?」
「大丈夫です。ただの車酔いなので少し休めば回復しますよ」
ホテルまではかなりくねくねした山道を登らなければならなかった。彼女が終始無言だったのは乗り物酔いしていたからだったのか……。
「わかった。必要な物があれば遠慮なく言ってね」
「はーい……」
彼女の言う通り、体を休めて回復するまで待つしかなさそうだ。
私はスマホをもってベランダへ出た。
標高の高さもあってか、日が沈む時間帯はかなり気温が下がるようだ。
ブルっと身を震わせると、籐で編まれた椅子に腰を下ろす。
顔をあげれば目の前にが高揚した木立が並んでいる。湖が望める部屋ではなくなってしまったが、自然は十二分に満喫できそうだ。
「やっぱり来てよかった」
突然お誘いに乗ってくれた竹光さんには感謝している。でも、本音を言えば先生と来たかった。
「……仕事バカなんだから……」
ワーカホリックな東先生ほどではないにしろ、安西先生も十分に仕事中毒だ。
外科医はどうして仕事熱心な先生が多いのだろうか。いつも全力で患者さんのことを考えている。
「まあ、そこがいいんだけど……」
ひとりでそういって、自嘲するように笑った。それから先生に電話をかける。
「もしもし、仕事終わった?」
普段通りのテンションでそう話しかけた。すると電話の向こうの先生は戸惑ったような声を出す。
『ああ、終わった。……それよか絢香、ほんとごめんな。申し訳なくて、俺、なんて謝ればいいのかずっと考えてて、それで連絡もできなくて。悪かったよ』
私が猛烈に怒っているとでも思っていたんだろうか。こんなにおどおどとした先生は初めてだ。
「いいって。仕事だもん仕方ないよ」
『でも、約束してたのに、本当に悪かった。もうホテルか?』
「うん、そう。すごく素敵なホテルだよ。正臣は? 今どこ?」
『…………家にいる』
てっきりまだ病院にいるのかと思っていたけれど、そうではなかったらしい。
「じゃあ、今からくる?」
来るはずがないと思いつつ(来られても困るけど)聞いてみたけれど、
『……悪い。これからまた病院に行かなきゃならなくて……』
断られるとそれはそれで腹が立ってしまった。
――仕事と私、どちらが大事なの?
なんていうつもりはない。でも、お灸をすえるくらい罰は当たらないよね。
「冗談だよ。仕事頑張ってね。……あ、起きたみたいだから切るね」
竹光さんがベッドから起き上がっているのが見えたのでわざとらしくいってみた。すると案の定、先生は驚きの声をあげる。
『はあ? 起きたって誰がだ――』
先生が話し終わらないうちに終話ボタンを押した。すぐに着信があったけれど私はそのまま電源を切り部屋へ戻るとバッグの中にしまった。
「竹光さん、体調はどう?」
「はい、だいぶ良くなってきて……お腹すきました」
「私も、おなかすいたな。ああでも予約の時間までまだあるなぁ……夕ご飯の前にお風呂に行こうと思うんだけど、行く?」
「もしかして、大浴場ですか?」
「うん、そう」
「行きます!」
私と竹光さんはお風呂へ向かった。広くてきれいな大浴場のお湯は温泉らしい。ゆっくりとお湯につかり、旅の疲れをいやす。
風呂から上がると身支度を整えて予約していたレストランでおいしい創作フレンチ料理を堪能した。
お酒が進んでしまったせいか、夜はぐっすりと眠れた。翌日はレンタカーを借りて牧場や滝を見に行き、二泊三日の旅行を十分すぎる程満喫した。
「すごく楽しかったです。誘ってくださってありがとうございました」
河原さんはそう言ってバッグからお財布を取り出した。
「……あの、竹光さん……」
「待って! 旅行に付き合ってくれて感謝してるの。お礼を言うのは私の方。だから、いいの。お財布しまって! ね?」
気を遣わせてしまったのなら申し訳ないと、私は慌ててそう言った。すると河原さんは「いいんですか?」と遠慮がちに言う。
「いいのいいの」
「ありがとうございます。じゃあこれだけでも」
そう言って見覚えのある袋を差し出した。
「試食して美味しかったので買いました。お漬物です」
二日目に車で立ち寄った地元で有名だという漬物屋さんで河原さんは店員さんにいろいろ聞きながら買い物をしていた。
「安西先生と一緒に召し上がってください」
「わあ、ありがとう! 遠慮なくいただきます」
河原さんの分もあると聞いて私は遠慮なく受け取ることにした。
「はい。ぜひ。あ、あとこれは電車の中で食べようと思って買ってきた羊羹と日本酒です!」
竹光さんはそういうとテーブルに並べる。
「昼間から飲むの?」
まだ十五時を過ぎたばかり。
「いいじゃないですか、日中に飲んじゃいけない理由なんてあります?」
「そういわれると……理由なんてないよね! じゃあ、遠慮なくいただきます」
小豆の風味が残るなめらかな羊羹と辛口ですっきりとした味わいの日本酒はとてもよく合った。車窓からみえるのどかな田園と山林の風景をぼんやりと眺めていると、明日から仕事に行くのが少しだけ億劫になる。
帰りの電車はあっという間に新宿に到着した。ホームに降り立つと勢いよく駆け寄ってくる大男がひとり。 いきなり肩を掴まれて私は思わず声をあげた。
「きゃあ!」
「絢香! 俺だよ」
「え、正臣?」
先生は少し気まずそうな顔をしている。私が悲鳴を上げたせいで周りの人たちの視線が集中してしまっている。
「驚いたー。迎えに来てくれたの?」
「当たり前だろ。それにお前、誰と……」
そう言って口籠る。きっと私が誰と一緒にいたのか確かめたかったんだろう。
「え? 河原さん」
私の後ろから降りてきた河原さんを見つけて先生は驚いたように目をしばたたかせた。
「安西先生! お疲れ様です」
「お疲れ様……って、なんで河原さんが? もしかして一緒にいたのって、なんだ、そうか」
先生はどこかホッとしたような表情で私を見つめる。
「そうよ、私が誘ったの。だってひとりで旅行するのは寂しいじゃない?」
つい嫌味を言いたくなってしまう。すると先生は申し訳なさそうにうなだれる。
「悪かったよ。一緒に行けなくて」
「本当に。まあでも、女子旅楽しかったから結果オーライってところかな? ね、河原さん」
「え!? ……あ、はい。すっごく楽しかったです。来られなくて残念でしたね、先生」
河原さんがそういうと、先生は「まいったなぁ」といいながら頭を掻いた。
先生の車で河原さんを家まで送っからマンションへ戻ると部屋の中はいつも以上に掃除されていた。
「キレイになってる?」
普段からきれいにしていたが、それ以上に小綺麗になっている、様な気がする。
「ああ。床にワックス掛けた」
そう言われて足元に視線を落とすとフローリングの床はピカピカに輝いている。
「へえ、すごい。そんな時間あったんだ?」
ああ、つい嫌味が出てしまう……。
河原さんとの旅行が楽しかったのは本当だ。でも、先生と行きたかった。これも本心だ。
「さすがに俺だってずっと仕事していたわけじゃないよ……旅行に行けなかぅたのは本当に悪かった」
先生はそういうと私を背中から抱きしめた。強引だけど、どこか遠慮がちに私に腕を回している気がする。
それから息を吸い込んでいった。
「もう許してくれよ、絢香。俺だって絢香と旅行したかったんだぜ。でも、患者が待っていると俺は……」
――患者さんを優先するんだよね。そんなこと言われなくたって、
「分かってるよ。患者さんほったらかしにしてきてくれても嬉しくないし、そんな適当な仕事しかできないような人だったら好きになってない」
「……ありがとう。絢香ならわかってくれるって信じてた。愛してるよ」
「私も」
私は先生の腕の中でくるりと向きを変えた。向かい合ってその胸に顔をうずめると大好きな先生の匂いがする。
「……ねえ、キスして?」
私は思わずそうねだっていた。
先生はゆっくり体を離すと太くて長い指で私の顎先を持ち上げて自分の方を向かせる。
「キスだけでいいのか?」
それだけじゃ足りない。そんなことは分かっている癖になんて意地悪なんだろう。「抱いてほしい」なんて私から言ってやるもんか!
「うん、いい」
そう言ってほほ笑むと先生は眉間にしわを寄せる。
「……そんなの、俺が絶えられるわけねえだろ」
先生はまるで噛みつくように私の唇に唇を押しあてると、まるでむさぼるように激しく舌を絡ませてきた。
「絢香。すげえ好き」
いいながら胸を揉みしだく。余裕のない先生の態度に密に安堵する私がいる。
これまでだって十分に愛されている実感はあった。けれど、先生の魅力を知れば知るほど私以外の女性に奪われてしまうのではないかという不安が大きくなってきたのも事実だ。
だからこんな風に求められると、先生の愛をより実感できて安心する。
たった数日会えなかっただけなのに、まるで何カ月も会えなかった恋人同士のように互いに求めあいながら夜を明かした。
翌日、夜勤入りだった私は昼過ぎに目を醒ました。隣にいたはずの先生の姿はない。私を起こさずに何時間も前に出勤したのだろう。
「寝不足だったろうな……」
ほんの少し申し訳なさを感じながらシャワーを浴びに行った。それから冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干す。
「はぁ~、生き返った」
濡れた髪をタオルで拭きつつソファーに座ってなにげなくテレビをつけた。
昼のワイドショー番組では話題のスイーツの特集が流れている。私はそれをぼんやりと流し見ていた。
「ハロウィンかぁ……縁がないな」
かぼちゃのスイーツは大好きだが、何でもハロウィン仕様にするのはいかがなものだろう。学生時代は仮装パーティーなんかにノリで参加したこともあったけれど、社会人になってからは全く興味もなくなってしまった。
「さて、ご飯食べよう。なににしようかな」
冷蔵庫の中身を眺めながらフレンチトーストにしようと決めた。卵と牛乳とそれとバター。食パンを四分の一に切り分けて卵液に浸す。バターをフライパンに落とし、ひたひたになったパンを並べて焼く。焼き目が付いたらメープルシロップをかけて少し焦がす。
甘く香ばしい匂いが立ち込め私の腹の虫がぐうーと鳴る。
白いプレートにそれらを並べてインスタントコーヒと一緒にテーブルに置く。
「いただきまーす」
甘いフレンチトーストはどうしてこんなに幸せな気持ちになるんだろう。自分で作ったとは思えないほど美味しすぎる出来栄えにテンションが上がった。
けれど、次の瞬間私の目はテレビに釘付けになる。
つけっぱなしにしていたワイドショー。話題の中心人物はあの椎名ほのかだ。
「今、人気のタレント椎名ほのかさんなんですが、先日生放送の出演ドタキャン騒動がありました」
仰々しくそう言うと、彼女の過去の映像が流れ始める。
「体調不良とのことでしたが、妊娠しているという噂もありますよね」
「そのようですね。もし妊娠しているとするとお相手はいったい誰なんでしょう?」
白熱し始めるトークに嫌気がさし、私はテレビの電源を落とす。
芸能人というものは仕事を突然休みことさえ許されないのか……なんだかとても気の毒に思える。
朝食を食べ終えた私は掃除や洗濯をして、少しだけ早めに病院へと向かった。
「絢香、お疲れ」
スタッフルームに入ると日菜がだいぶ遅い昼休憩を取っていた。とても疲れた顔をしている。
「お疲れ! 今日忙しかったの?」
「そうなの。もうへとへと」
そう日菜が言うのだから余程忙しかったのだろう。
「大変だったね~じゃあ、これでも食べて元気出して」
私は日光のお土産をテーブルに置く。
「えーなになに?」
「お土産だよ~イチゴのお菓子と、牧場で買ったチーズケーキ。あとこれがおせんべい。全部美味しそうだったから……」
「わあ、こんなにいっぱい」
買いすぎたかもしれないと思ったが、外科病棟のスタッフみんなで食べるにはちょうどいいだろう。
「あそうか! 旅行いったんだよね」
「それとこれは日菜に。東照宮で買ったお守り」
私は白い紙の袋に入った鈴のお守りを日菜に渡す。
「うれしい!ありがとう。それで、旅行どうだった?」
「楽しかったよ。河原さんとの女子旅」
私がそういうと、日菜はきょとんとした顔で首をかしげる。
「どうして河原さんと? 私はてっきり安西先生と一緒だと思ってた。二人同時に休んでたし」
「……え?」
日菜の言葉に我が耳を疑った。
「先生も休んでたの? だって仕事で来れないって……病院にいたんじゃなかったの……」
「病院にはいなかったよ、え? ……あ」
日菜は何かを察したように口元を抑える。
「やだごめん、多分余計なこと言っちゃったよね……」
途端に昼間のワイドショーの映像がよみがえる。
ほのかが番組をドタキャンしたのは“先日”と言っていた。これは調べればすぐわかることだ。
考えたくないけれど、先生は椎名ほのかの所へ行っていたのかもしれない。
「絢香? ……あの、大丈夫?」
ハッと我に返る。不安そうな顔をした日菜が私を見つめていた。
「うん、大丈夫! なんでもない」
日菜を安心させるために笑顔を作る。けれど心の中は穏やかではいられない。私はすぐにスマホで椎名ほのかを検索する。
出演ドタキャンの話題はすぐに見つかった。案の定、例の番組の収録は旅行の当日だった。
……やっぱりだ。思い返せば河原さんもおかしなことを言っていた。
先生は旅行の前の日の夜、病院からいなくなっていると。
椎名ほのかに呼び出された――そうとしか考えられない。
私はおもむろに立ち上がった。
「絢香?」
「トイレ行ってくる」
そう言ってスタッフルームを出る。ナースステーションを覗くとパソコンに向かう安西先生を見つけた。
「お疲れ様です」
そう声をかけると先生は「おー」と普段通りの反応を見せる。
「あの、少しいいですか?」
「おお、なんだ?」
私がナースステーションから出ていくと、先生も慌てて立ち上がり後をついてくる。人気のないスタッフ用の階段で足を止めた。
「どうしたんだよ絢香」
そう聞く先生の目には怖い顔をした自分の顔が映り込んでいる。
「ひとつ確認したいことがあるんですがいいですか?」
ああ、どうしよう。優しく問いただすなんてできない。
「私に隠してることありますよね?」
「……何の話?」
しらばっくれるつもりだろうか?
「こないだの旅行、仕事で来られなかったって、あれ、嘘ですよね?」
思わず語気が強くなり、握った拳が小刻みに震える。
「仕事だったさ」
まるでため息を吐くように、先生はそう言った。ため息を吐きたいのは私の方なのに……。
「どうしてすぐばれるような嘘つくんですか? 河原さんも日菜も先生は病院にいなかったって言ってますよ? どこにいたんですか?」
もしバイト先にいたなら「仕事」と濁さないだろう。
先生のバイト先は中規模の個人病院で夜中にいきなり呼び出されるようなことはないし、そもそも数日休暇を取ると事前に伝えたと言っていたはずだ。
「……夜中に連絡があったんだ」
まるで観念したかのように先生は話し始めた。
「“佐藤和美”さんから?」
「……そうだ。腹が痛いって話だったから夜間病院の受診を勧めてみたんだよ。そうしたら動けないくらいの激痛だって言い始めて、救急車を呼ぶように説得したけど記事になるから呼びたくないって言われて……」
「それから?」
私は話の続きを急かす。
「すぐに彼女のマネージャーに電話して、様子を見に行って欲しいってお願いした」
マネージャーの連絡先を知っていることに引っかかりはしたが、先生なりにほのかに呼ばれてすぐには行こうとしなかったと知れてほんの少しだけ安心した。
「でも、結局行ったんでしょ?」
「ああ。数分後マネージャーから”ほのか”が電話に出ない。重病かもしれないから一緒に来てくれないかって懇願されて。さすがに朝までには帰れるだろうって踏んで和美のマンションへ向かったんだ。結局急病ではなかったけど、独りには出来ない状態で……」
その先は想像がついた。入院していた時の彼女はとにかく周囲を振り回す人だったし。
「主治医として放っておけなかったんだよね? それは理解できる……」
医師として患者を見殺しにすることはできない。それは私だって一緒だ。医療者でなくても、だれだって苦しんでいる誰かを救いたいと思うだろう。
「絢香……」
ほっと顔を緩ませる先生。分かりやすすぎてむかつく。でも、素直で馬鹿正直なところは嫌いじゃない。
「今回だけだからね。医者としての使命を果たしたってことで納得してあげる」
物わかりのいい彼女になろうなんて気持ちなみじんもないけれど、先生の言い訳を聞いて別れを決断するほどの怒りは湧いてこなかった。
「絢香。分かってくれてありがとう」
今にも抱き付いてきそうな先生を手で制して私は言った。
「でもね、正直にいうと元カノだから断れないってのもあるんじゃないかなって思ってる……だから次、また同じ事したら別れるから、分かった!?」
「もちろん、善処します! 絢香殿」
先生は直立不動の姿勢で敬礼をする。この流れでおちゃらけてしまえるのってある意味天性の才能かもしれない。これ以上怒る気も失せるし、のっかってあげようって思えてしまう。
「よろしい」
私が言うと先生は勢いよく抱き付いてくる。いや、とびかかってくるといった方がしっくりくる。まるで大型犬のようだ。
「絢香、ごめん。ほんとごめん。夜勤じゃなかったらこのまま家に連れて帰ってお詫びにいろんなことしてやりたい」
「いろんなことってどんなこと?」
いいたいことはよくわかっているが、わざとらしく聞いてみる。
「そりゃ、あれだろ。あんなことからこんなことまで」
「あらそう。じゃあ、キッチンのレンジフードとお風呂の排水溝の掃除しておいてくれる?」
「……なんだって?」
抱きしめていてた手を緩めて私の顔を覗き込んでくる。思っていた答えと違ったのだろう。
「なにか問題でも?」
にっこりと微笑んで見せると先生もつられたように笑った。
「ああ。あはは、わかった。やっておくよ……」
「ありがとう。よろしくね! 正臣くん」
チュッと頬にキスをして私から体を離した。先生は名残惜しそうにしている。
「そろそろ申し送りの時間だから行くね。遅刻だって怒られちゃう」
「ああ、そうだな。頑張ってこいよ」
手を振りながら見送ってくれる先生に背を向けて、私はナースステーションへと戻った。
それから数か月はなにごともなく平穏な日々が続いていた。
クリスマスも、年越しも、なんの邪魔もされずに過ごせた。
しかしある日の深夜。寝室のベッドで眠っていた私は、先生のスマホの音で起こされる。
「……んー、正臣。電話鳴ってるよ」
耳元でなり続けるその音を避けるように背を向けた。
「わりい、マナーモードにするの忘れてた……」
寝ぼけた声でそう言いながら先生はスマホを手に取った。けれどいっこうに出ようとしない。やがて着信音が止んだ。私は盗み見るように先生の方を見た。光るスマホの画面を険しい表情で見つめている。
「誰からだったの?」
「……和美からだった。起こしちゃってごめんな。寝ようか」
そう先生が言った直後、今度はLINEの着信があった。しかも連投しているようで、”ピコピコ“と鳴り続けている。その音があまりにも鳴りやまなくて私は得体のしれない恐怖を感じてしまった。
「なんなんだよ、いったい」
先生はアプリを開こうとする。私は慌てて止めた。
「待って! 既読にしないで」
「なんで?」
きょとんとする先生に私はイラッとしてしまった。
既読を付けたら起きているとバレてしまう。寝ているふりでもしておかなければ、先生が反応するまで連絡は続くだろう。
「なんでって……分からない?」
「うん、ごめん」
「既読つけてハイ終わりってわけにもいかないでしょ? やり取りするつもり?」
「いや、そんなつもりはないけどな」
少し困ったようにポリポリと穴の頭を掻く。
そう言いながらもしつこく連絡が来たら対応してしまうんだろうなということが容易に想像できる。
「そもそもこんな夜中に連絡してくるなんて非常識だよ」
さっき時計を見たら三時前だった。芸能人なら普通に起きている時間なのだろうか。知らんけど。
「それにもし急病だったらスマホですらすらとテキスト入力できるはずがないし。連絡とるなら昼間にしてくれる?」
私のことを冷たい女だと思うだろうか。
「そうだな。絢香の言うとおりだ。もう連絡は取らないよ。いま電源切った。もう寝よう。起こしてごめんな」
先生は真っ暗になったスマホをサイドボードに伏せ置くと私を抱き寄せて目を閉じた。けれど私は朝まで眠ることができなかった。
彼女のような人間を私はひとり知っている。貴重な中学校生活をその子のために過ごしたと言っても過言ではない。
一年生の冬に編入してきた花梨はまるで黒髪のビスクドールのようにかわいらしい子だった。クラス委員をしていた私は先生から花梨のサポート役を頼まれた。
帰る方向も同じで、校内以外でも一緒にいる時間が多く、すぐに仲良くなれた。
聞くと両親が離婚して母親の実家のあるこの町に引っ越してきたそうだ。どことなく憂いがあるのはそのせいかと思いながら、頼ってくる花梨をまるで妹のようにかわいがった。
もともと長女気質の私は日菜の世話を焼くのも苦痛に感じなかったし、一日でも早く学校に馴染んで欲しくて一生懸命だった。だから、クラスメイトが私のことを“オカン”と揶揄するのもまったく気にしていなかった。
それから二年生になりクラス替えで花梨と別のクラスになった。
彼女のことは若干心配ではあったけれど、私以外の友達を作るいいきっかけになるだろうと思っていた。
けれど、花梨は休み時間の度に私のクラスへとやってきた。
『ねえ花梨。ほかにも友達作ったら?』
『それどういう意味? 花梨のことが嫌になったの?』
『そうじゃないよ。ただ、私以外の子とも仲良くしたらいいのにって思っただけ』
花梨にそう言いながらもこれは私自身の思いなのだと気付いた。
花梨はLINEの返信が少しでも遅れると悲しむ。私は必死で返信をしたけれど、家では弟の世話をしなければならないし宿題もある。
それにクラスにはもうすでに受験を視野に入れて勉強している子がたくさんいて、休み時間や放課後は受験勉強や進路のことを話したり相談したりしたいと思っていた。
でも、休み時間も放課後も全部花梨に占領されてしまっていつの間にか彼女のことを疎ましく思う瞬間があると気付いてしまった。
『花梨は絢香がいればいいの。絢香も花梨がいればいいでしょ?』
『…………。どうだろう』
『なにそれ、最低!』
花梨はかわいい顔を歪めてそういうと教室を走って出て行ってしまった。
私は追いかけなかった。どこかホッとしていた。嫌われて安心するなんて最低だと思ったけれど、こんな私の友達でいる必要なんてないと思うことにした。
けれど、その日の夜。花梨から長文で謝罪するLINEが届いた。許してもらえなかったら死ぬとまで書いてあった。
私は彼女が心配になり、家まで会いにいった。もしかすると私は自分がかわいかったのかもしれない。私のせいで花梨が死んでしまうのは嫌だった。
花梨は機嫌よく私を部屋に招き入れ、親友の証だといってお揃いのヘアゴムをくれた。
その後の私たちの関係はというと、些細なことに花梨が怒って絶交されかと思えば『絢香しかいない』と復縁を求められる。その繰り返しは卒業するまで続いた。
おかげで花梨以外の友達と遊んだ記憶がない。仲の良かった友達はみんな離れていってしまった。
今ならわかる。
椎名ほのかのことを断ち切れない先生の気持ちも。あの時私から離れていった友達の気持ちも。
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