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#獣人
夕方の台所には、柔らかな橙色の光が差し込んでいた。窓の外では、日がゆっくりと沈みかけている。
昼間の静けさとは違う、少しだけ生活の匂いがする時間だった。
ノワールは、台所の入口で立ち止まっていた。
さっき「手伝いたい」と言ったものの、実際にここへ来ると、どうしていいのかわからない。
ステラは鍋の前に立ち、火加減を見ていた。
ノワールの気配に気づくと、振り向いて小さく微笑む。
「来てくれたのね」
ノワールは小さく頷いた。
でも、そのまま動けない。
何をすればいいのか。
勝手に触ったら怒られるんじゃないか。
邪魔にならないだろうか。
そんな考えが、頭の中でぐるぐると回る。
ステラは少しだけ周囲を見回してから、穏やかな声で言った。
「じゃあ、これお願いできる?」
差し出されたのは、小さな木のボウルに入った野菜だった。
まだ土がついている。
「水で洗ってくれると助かるわ」
命令じゃない。
でも、はっきりした役割だった。
ノワールは、ゆっくりとそれを受け取る。
「……うん」
小さく返事をして、流しの前に立った。
蛇口をひねると、水の音が静かに響く。
冷たい水が指先に触れた。
野菜の表面をこすりながら、土を落としていく。
ステラの方からは、包丁の音が聞こえてくる。
一定のリズムで、まな板を叩く音。
ときどき、鍋の中の湯気が立ちのぼり、ふわりと匂いが漂った。
温かくて、少し甘い匂い。
ノワールは、野菜を洗いながら、何度も横目でステラを見た。
怒っていない。
急いでもいない。
ただ、淡々と作業を続けている。
(……これで、いいのかな)
そう思う。
でも、聞くのが怖い。
「違う」
「そんなこともできないの?」
そんな言葉が返ってくる気がして、喉が固まる。
ノワールは、野菜を一つずつ丁寧に洗った。
汚れが残っていないか、何度も確かめる。
全部洗い終えると、手が止まった。
次に、どうすればいいのかわからない。
ボウルを持ったまま、しばらく立ち尽くす。
声をかけようとして、やめる。
でも、このまま黙っているのも、変な気がした。
ノワールは、小さく息を吸う。
「……これで、いい?」
声はかすかで、ほとんど空気に溶けそうだった。
ステラは手を止めて振り向く。
ボウルの中をちらりと見て、頷いた。
「うん。ありがとう」
それだけだった。
大げさに褒めるでもなく、
評価するでもなく、
ただ、自然な言葉。
その一言で、ノワールの胸の奥が、ふっと軽くなる。
(……怒られない)
当たり前のことなのに、
それがこんなにも安心できるとは思わなかった。
「じゃあ、次はこれお願いしてもいい?」
ステラが、小さな皿を差し出す。
スプーンとフォークが数本乗っていた。
「テーブルに並べてくれる?」
ノワールは頷き、皿を受け取る。
食卓へ向かい、一つずつ並べていく。
間隔をそろえて、まっすぐに。
何度も位置を直しながら。
(変じゃないかな)
少し離れて見て、また近づいて直す。
それを何度か繰り返した。
やがて、ステラが料理を持ってきた。
湯気の立つスープと、焼きたてのパン。
「ありがとう。きれいに並んでる」
ノワールは少しだけ肩をすくめた。
褒められたのかどうか、よくわからない言い方だったけれど、
声の調子は柔らかかった。
二人で椅子に座る。
向かい合う形だった。
「いただきましょうか」
ノワールも、小さく手を合わせる。
「……いただきます」
スープを口に運ぶ。
温かさが、喉を通っていく。
その瞬間、ふと気づく。
(……これ)
さっき、台所にあった匂いと同じだ。
自分がいた場所の匂い。
野菜を洗った音。
包丁の音。
湯気の立つ鍋。
全部、このスープにつながっている。
(……一緒に、作った)
その感覚が、不思議だった。
特別なことはしていない。
野菜を洗って、スプーンを並べただけ。
それでも、どこかで自分も関わっている気がする。
変な感じだった。
でも、嫌じゃなかった。
食事は、静かに進んだ。
会話はほとんどない。
それでも、気まずさはなかった。
音がある。
温度がある。
向かいに誰かがいる。
それだけで、十分だった。
食べ終わり、ノワールは食器を見つめた。
(……名前、呼んだんだ)
夕方の台所で。
何気なく、口から出た言葉。
「ステラ」
あの一言。
あのとき、何も壊れなかった。
怒られもしなかった。
空気も変わらなかった。
ただ、いつも通りに、微笑んでくれただけ。
(……手伝っても)
怒られなかった。
役に立たないと言われなかった。
今日という一日は、
昨日までの一日とは、少しだけ違っていた。
ステラが食器を片づける音を聞きながら、
ノワールは静かに息を吐く。
胸の奥にあった固まりが、
ほんの少しだけ小さくなっている気がした。
夜は、まだ長い。
明日も、同じように始まるかはわからない。
それでも――
(……今日は、少しだけ)
楽だった。
その事実だけを抱えたまま、
ノワールは椅子の上で、静かに目を伏せた。