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駅のホームで電車を待つ、夏の午後。
蝉の声が耳の奥に焼きついて、どこか遠くでずっと鳴いている。日下部は、改札を出たばかりの遥の姿を見つけて、軽く片手を上げた。
「……よ」
遥は、少しだけ口の端を上げて、うなずいた。
二人とも、制服じゃなかった。今日は休みだ。日下部は黒のTシャツにカーキのジャケット。遥は白いシャツに、襟元を無造作に崩して、ジーンズ。人の視線をどこか避けるように歩く遥の後ろを、日下部はほんの少し距離を保ちながらついていった。
「どこ行くか、決めてんの?」
「……別に。歩くのがいい」
「それ、デートって言わなくない?」
遥は返事をしなかった。ただ、小さく息を吐いて、信号を渡る。
そういうやりとりが、嫌じゃなかった。何もかも分かり合おうとしない、けれど、決して切れない糸のような距離感。
商店街の細い道に入ると、ふと遥が立ち止まる。古い書店の前。中から冷房の風がふわりと漏れ出していた。
「寄る?」
「……ああ」
狭い店内。棚のすき間で二人、無言のまま本をめくる。日下部は詩集を手に取り、遥は絵本のコーナーにいた。子どもがいないことに、違和感はなかった。
「これ、持ってた」
遥が手にした絵本を見せてくる。あざとさもなく、ただ淡々と。
「壊れてたやつ?」
「うん。ページ、やぶれてた」
日下部は、遥の指先に視線を落とした。ふと、幼い頃の遥を想像する。その頃から、たぶん、静かに生きてたんだろうな、と思った。
「じゃあ、俺がそれ買ってやるよ。直して持っとけ」
「いらない」
「うるせえな。俺が欲しいっつってんだろ」
遥が目を伏せて、苦笑した。
店を出ると、陽が少し傾いていた。蝉の声はまだ続いている。日下部は自販機で缶コーヒーを買って、遥に一本差し出した。遥は受け取らなかった。
「……甘いの?」
「甘いやつも、たまにはいいんじゃね」
「おまえが?」
「いや、遥が」
少し沈黙があって、それから遥が缶を取る。
「……ありがとう」
一言だけ。陽炎の向こうで、遥の声が揺れていた。
──これが「もしも」の世界なら。
もし、誰かに脅かされることもなく、無理に笑う必要もないなら。
ただ、何の事件も、目撃も、加害も、ない世界なら。
二人は、こうして、日差しのなかで歩くだけでよかったのかもしれない。