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尽の、課長への牽制のお陰か……残業もぐんと減り、天莉はこのところとっても体調がいい。
代わりに江根見紗英が荒れに荒れているけれど、恨めし気に天莉を見詰めてくることはあっても、以前のように「先輩」と言って泣きついてくることはなかった。
気が付けば、席も天莉から離れた位置に移動になっていて。
今まですぐ隣。仕事そっちのけでネイルをいじったり、髪の毛を指先でこねくり回していた紗英が視界に入りにくくなっただけでも、天莉にはかなりのストレス軽減と作業効率のアップに繋がっている。
まあ、そうは言ってもあの紗英のことだ。
プライベートでは、さぞかし博視にしわ寄せがいっているだろう。
けれど、『そんなの私には関係ないわ』と思える程度には、二股男のことも気にならなくなっている。
そう。天莉は心身ともにすっかり回復傾向なのだ。
多分、一人暮らしのアパートに戻っても何の問題もないはず。
なのに――。
未だに〝目が離せないから〟というあるんだかないんだか分からない理由で、尽の家に留め置かれている天莉だ。
とはいえ、天莉自身もここへ来た当初ほど強く帰宅を望んではいない自分がいることに気付いていた。
部屋だって鍵が掛けられる快適な一室を与えられているし、何より――。
(高嶺常務ってば、放っておいたら店屋物ばっかりなんだもん。誰かが管理してないと、絶対体調崩しちゃう)
その〝誰か〟はきっと、今まで伊藤直樹が担っていたんだろう。
だがその彼も天莉に遠慮してか、はたまたこれ幸いと思っているのか……。
プライベートでは尽の食生活に関して、口出ししてくることは殆どなくて――。
(会社にいる時は、しっかり管理して下さってそうだけど)
尽が、直樹とともに会社で過ごす昼時はきっと。栄養バランスを考えた食事が摂れるように、直樹がアレコレと気遣ってくれていそうなイメージだ。
何せ、伊藤直樹は高嶺尽の幼なじみ。
もちろん秘書と言う立場もあるだろうけれど、それ以上に親友として、尽の健康面には心を砕いてくれている気がする。
だったらやはり直樹の目が届かない朝食と……。家で食べられると言う時くらいは、夕飯も天莉がしっかり管理してあげたいなと思って。
(高嶺常務、好き嫌いもほとんどないし、作ったもの、美味しそうに食べて下さるから作り甲斐があるんだもん)
博視は野菜類全般が余り好きではなくて。
何かにつけては「あれを入れるな、これを入れるな」等々色々ダメ出しをしてくる男だった。
それに比べたら、尽への食事作りは本当に肩肘張らなくていいし、何なら結構楽しい。
天莉が美味しいと思って味見したもの、天莉が食べたいと思って食材を用意して作ったものを、尽も喜んで食べてくれる。
最初のうちこそ庶民的なものはどうかな?と思っていた天莉だったけれど、今ではそう言うのも全然気負わなくなった。
アジの開きの干物を焼こうが、小口ネギたっぷりの納豆を練ろうが、キュウリの浅漬けを添えて出そうが、里芋の煮っ転がしを小皿に取り分けようが、尽は綺麗に平らげて、「ご馳走様、美味しかったよ」と言ってくれる。
特に気に入ったものは「これ、美味かった。また作ってくれる?」と付け加えてくれるので、尽の好みが段々把握出来てきて――。
そんな中、残したりケチをつけたりする事こそないものの、噛まずに丸呑みしているところから、どうやらピーマンが苦手なのかも?と言うことも見えてきた。
(入れないでって言わないところが何だか可愛く見えちゃう!なんて言ったら、怒らせちゃうかな?)
別に大したことではないけれど、そう言う一つ一つがやけに嬉しかったりする天莉だ。
(そう、あくまでも私が食べるのを作るついででも大丈夫だから、気楽なんだもんっ)
もっともらしい理由を付けてはみたけれど、要はこの生活が身体に馴染みつつあるのだと、天莉自身心の片隅では分かっている。
そんな折のことだった。
***
いつものように天莉が作った夕飯を美しい所作で食べながら、尽が唐突に手を止めて言った。
「天莉、近いうちにキミのご実家へ、挨拶にうかがいたいんだが……」
「えっ」
そこで初めて、尽が結婚に際してそんなことを言っていたのを思い出した天莉だ。
今日のメニューは鮭とほうれん草とキノコが入ったクリームパスタ。
食べる直前にお好みで粉チーズを振りかけたそれをチュルリと吸い込んで、天莉は目の前の尽を見詰める。
「お互いの家に挨拶が済むまでは入籍はしないって話したよね? 覚えてる?」
無論尽が言っているのは猫柄が可愛い婚姻届の方だ。断じて小豆色の方ではない。
その証拠に――。
「空けたままにしてある証人欄も、挨拶がてら片方は天莉のご両親のどちらかに、もう片方は俺の父親に埋めてもらう予定なんだが」
挨拶をしたその足で婚姻届まで持ち出す気満々らしい尽の言葉に、天莉は今度こそ瞳を見開いた。
さすがに「初めまして。お嬢さんとお付き合いさせて頂いています」からの、「つきましては婚姻届に署名捺印をお願いしたいのですが」は、余りにも急展開過ぎて実家の両親が付いてこられない気がする。
「高嶺常務のご両親は……初めましての挨拶と同時に結婚します!って宣言されても平気なんですか?」
やんわりと、「それ、おかしいですよ?」と指摘したつもりの天莉だったのだけれど。
「ん? 平気も何も……。元々俺は親からの条件で三十五までに結婚相手を見つけないといけなかったからね。実際猶予が迫ってる。それこそ相手を自分で見付けて帰るか、親が見付けた相手を娶らされるかの二者択一だから。――別に問題はない」
確か天莉が去年社内報で見るとは無しに見た高嶺尽の年齢は、三十三歳と書かれていたはず。
彼の誕生日がいつかは分からないけれど、今は三月に入ったばかり――。
もしも尽が二月八日生まれの天莉同様早生まれならば、すでに三十四になっているか、もしそうではないにしても、年内にはそうなると言ったところだろう。
確かに結婚相手を見つけて婚姻までこぎつけるとなると、期限が一年くらいしかないというのは……それこそお見合い以外では厳しそうではある。
「あの……っ、高嶺常務のお誕生日はいつなんですか?」
そんなことを考えた天莉は、思わずそう問いかけて――。
「ん? 俺の誕生日は四月五日だが――。ああ、三十五までにあとどのくらい残されてるのか気になったのか」
天莉からの質問にククッと笑うと、尽が「もうじき三十四になるが、プレゼントはキミでいいよ?」と天莉を見詰めてくる。
眼鏡の奥の眼光が冗談を言っているようには思えなくて、天莉はドギマギして。
どうしていいか分からなくて、パスタをフォークにクルクルクルクル巻き付けて誤魔化そうとしたら、「そんなにたくさん巻いて、キミの小さな口に入るの?」と笑われてしまった。
「たっ、高嶺常務が笑えない冗談をおっしゃるからですっ!」
思わずそんな尽を睨み付けてそう返した天莉だったのだけれど。
「冗談とは心外だな、天莉。俺は結構本気で言ってるんだけどね?」
今までは息子の自主性に任せてくれていた両親から、三十四歳になったら自分たちが勧める相手との見合いを否応なく受けてもらうと宣言されているのだと、尽が真剣な顔で吐息を落として。
「そうなる前に、俺は天莉を両親に紹介したいんだよ」
そう言った。
「――それに、どうも天莉は勘違いしているみたいだけど……キミのご両親に対しても、俺は元より〝お嬢さんとお付き合いさせて頂いています〟だなんてまどろっこしい挨拶をするつもりはないんだけどね?」
「えっ?」
「結婚の許しを得るために挨拶へ行くのに、何でわざわざ交際宣言をする必要がある? そんなところはすっ飛ばして、『お嬢さんを私にください』一択だろう?」
眼鏡越し。
真摯な表情で見つめられた天莉は、尽はこのとんでもない申し出を、本気で言っているんだと理解した。
予想の斜め上なことを言われて、思わず言葉に詰まった天莉を見て、尽も思うところがあったのかも知れない。
ふと思い出したように、
「そういえば前に提案した猫の件も同時進行で進めたいんだが、どういう子がいいとか……希望はあるかね?」
と付け加えてきて。
さして構えた風でもなかったのに、どういう〝猫〟と言わずに〝子〟とサラリと言えてしまう尽に、不覚にもキュンとしてしまった天莉だ。
たったそれだけのことだったけれど、きっとこの人は猫を大切にしてくれるんだろうな、と思っただなんて言ったら、与し易いチョロ子だと思われてしまうだろうか。
天莉は今まで猫をお迎え出来なかった分、猫と暮らすと言うことに関しては、結構夢見がちだったから。
どうしても猫が絡むと色々気持ちが緩んでしまう。
そんな天莉。
お迎えするなら行き場のない子がいいな、と思ってきた。
それこそ、尽とこうなる前から長いことずっと。
(でも……)