◻︎やった後悔やらなかった後悔
石﨑夫婦とのやり取りがあってから数日後。
「はぁ……」
あれから何度も思い返して、後悔の念に苛まれる。その家庭(石﨑家)の事情なんて知りもしないのに、上辺だけで勝手にあんなことを言ってしまった自分は、なんて軽率だったんだろう。
「お母さん、まだため息ついてるの?」
「うん、やっぱり言い過ぎたよなぁってさ。あの奥さんは夫源病だとすぐわかったけど、確認もせずに言いたいこと言っちゃったから。あのご夫婦、どうなったんだろ?」
「でも、お母さんが言わなかったら、その奥さんも言い出せなかったんじゃない?
多分、感謝してると思うよ、きっかけを作ってくれて」
「そうかなぁ?あの後どうなったか、確かめようもないしなぁ」
光太郎は石﨑と同期ではあったけど、部署も違い性格も違い過ぎて、仲がいいというわけではなかったようで、連絡先も知らなかった。
「ね、お母さんがよく言ってるじゃない?“した後悔はいつか薄れるけど、しなかった後悔は後々大きくなっていく”って。またどこかで偶然会ったら“あのときはごめんなさいね”でいいと思う。もし、お母さんが言ってなかったら、その奥さんはずっと悩んでいたかもしれないよ」
「そうだね、うん、もう考えるのはやめとく。もしも何かあったら、その時考えればいいんだから」
伊万里に言われて、思い直す。
___そうだ、あの奥さんは言い出す機会を待ってたのかもしれない
クラクションの音がして、光太郎が帰ってきた。ホームセンターで、壁のリフォームに必要な材料を買い込んできたらしい。
「涼子ちゃん、下ろすの手伝って!」
「はいはい、うわ、大量だね」
壁に塗る珪藻土やブルーシートや養生テープ、それから洗剤にウェス。
「道具はね、海山さんが貸してくれるんだ。もうすぐ持ってきてくれるから」
「そうなの?助かるね。プロの道具はきっと使い込まれていて使いやすいよ」
「でしょ?それでさ、つい、これも買ってきちゃった」
光太郎がうれしそうに袋から出したのは、カーキ色のツナギの作業服だった。
「こういうの、憧れてたんだよ。いかにも仕事ができそうでしょ?」
「なるほど。うん、いいかも。靴はどうするの?」
「ほら、この前靴箱を片付けた時に出てきたくたびれたスニーカーがあったでしょ?あれでやるよ」
ほどなくして、海山リフォームと書かれた軽トラがやってきた。運転席から降りてきたのは、30そこそこの男性、助手席からは海山由理恵だった。
「こんにちは。お世話になります」
「こんにちは、今日は息子も応援に連れてきたので、よろしくです」
「よろしく…って、アレ?」
海山リフォームの作業服と、光太郎が買ってきた作業服がそっくりだった。
「だってほら、一体感があってよくない?」
「まるで海山リフォームで働いてる人みたいだよ」
「格好だけでも同じだと、腕も良さそうにみえるでしょ?」
光太郎はうれしそうに、パンパンと左の二の腕を叩いてドヤ顔をして見せる。
「さ、じゃあ、始めますか」
「私も着替えてきます」
そうやって、キッチンのリフォームが始まった。それはまるで夏休みの特大工作をみんなで作っているようで、ワクワクした。
キッチンにある、動かせるものは全部どけた。長年使い込んだ壁の隅には、油と埃がうんざりするほど堆積していた。
「こういうのはまず、ヘラでこそぎ取ります。それから洗剤をかけてキッチンペーパーを乗せて」
「あ、しばらく置いとくんでしょ?」
「いえ、時間がないのでこの上からスチームをかけて熱で溶かします」
海山由理恵と息子の卓人が手本を見せてくれる。まるで魔法のようにしつこい汚れが浮いて落とされていく。
「すごっ!気持ちいいね、コレ!」
私と光太郎も同じようにやっていく。
「親子の共同作業と夫婦の共同作業、どっちが上手くいくかな?」
なんて光太郎が呑気なことを言う。
「あのね、親子と言ってもあちらはプロなの、勝てるわけないから」
あーだこーだと言いながら、作業を進めていく。汚れを取り去ったらしばらく乾燥させる。珪藻土を用意して、海山リフォームから借りた道具で塗り付けていく。
「うわっ、見てたら簡単そうなのに、めちゃくちゃ難しい。うまく平らにならないんだけど」
「ホント。波になって筋が入って綺麗にならない」
光太郎と二人、慣れない壁塗りにもたついてしまう。
「いいんですよ、プロじゃないんだし誰かに見せるためでもないんだから。筋も波もそれが味なんですよ。楽しんで塗ってくださいな」
由理恵に言われて、気が楽になった。そうだ、これは自分の家のリフォームだし、失敗しても誰にも迷惑はかけないのだから。
「じゃあさ、ちょっと僕のセンスでわざと模様を入れてもいいかな?」
ニヤリと笑う光太郎。
「いいけど、どんな?」
「こんな!」
そう言うとペタッと壁に手型を付けた。
「いやだ、子どもじゃないんだから。それは夜中に浮かび上がったら怖いからやめて」
「あ、そっか。それもそうだ。じゃあ普通にコレにしとく」
今度は指先と手のひらをつかって、猫の足跡のような模様を付けた。それは床から斜めに上がって行く。
「可愛い!それなら許す」
なんて私と光太郎が遊んでいる間に、他の二面の壁は綺麗に仕上がっていた。
「うわ、さすがプロ。早いし綺麗だね」
「ホントだ。うっすらと模様が入ってるけど、これはオシャレな模様だ」
コテを使って均一に並んだ半円の模様は、まるで機械で書いたようだった。
「ま、これくらいはね」
由理恵がドヤ顔をして見せる。それを見ていた光太郎が目を輝かせた。
「ね、これ教えて。どうやるの?」
光太郎の顔を見ていたら、新しいことを知ることは、いくつになっても楽しいんだと思った。
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