薄いガラス窓を叩くのは雨粒だ。
誰かがノックしているかのように、音は徐々に激しさを増していった。
建付けの悪いアパートはガタガタと嫌な軋みをたてて小刻みに揺れている。
天気予報で聞いたよりも、台風の風は強いようだ。
「連休に直撃って言ってたけど……」
こうも直にくるなんてと呟くのはボロアパートの住人・花咲蓮である。
のどかな口調から、危機感は乏しいものと見受けられた。
「大丈夫。連休中、買い物に出なくていいように、食料も芋けんぴもたくさん買いこんだからね。だ、だから大丈夫……」
窓際に置かれたコップにはスズランが不安そうに揺れている。
二階に住む仲良しのおばあさんにもらったものだ。
振動で落ちてはいけない。
両手で包みこむようにコップを持つと、蓮はそれを台所に避難させた。
「おばあさんは大丈夫かな。また雨漏りしてたらいけないし、見に行ってあげようかな……クシュン!」
やっぱりおばあさんの所へ行くのはよそうと結論づけたのは、立て続けに三度クシャミをしたからだ。
学会での発表が終わった解放感か。
この数日、鼻水をすすることが多い。
台風は不安だが、連休なのはもっけの幸いだ。
どこにも出かけず休養しようと蓮は考えていた。
こうやって大学と強制的に距離を置けるのは、実はありがたい。
モブ子らのテンションはたまによく分からないし、征樹からは相変わらず雑用を押しつけられる。
「それに小野くんの顔を見ないし……」
もしも彼が本当に大学を辞めようと考えているなら、自分が口を挟むことはできない。
先生のことが好きですという言葉も、ただのきまぐれだったのだろう。
──意地悪をします。先生が思い出してくれるまで言いません。
なんて言っていたけれど、何のことなのか聞けずじまいになってしまった。
「そっかそっか。優しい顔して、実は意地悪だったんだなぁ……小野くんは」
柔らかな光を湛えた薄茶色の瞳を思い出す。
「モブ子さんたちにはオノチンなんて呼ばれてたなぁ。俺も……」
親しみをこめた「ちん」呼びは、実は結構好きだったのだ。
できることなら、自分も一度「小野ちん」なんて呼んでみたかったものだ。
いや、それよりも花ことばで誠実という意味らしい梗一郎という名を口にしたら、彼はどんな顔をしたろうか。
「きょ……」
そっと呟いた名を、しかし最後まで言うことはできなかった。
額に冷たい水が落ちてきたのだ。
まさに冷水を浴びせられた気分だ。
窘められたようだと蓮は口を閉じる。
そして次の瞬間、はたと気付いたのだ。
「待って。ここ一階だよ?」
雨漏りかと思ったのだ。
だが、頭上を見上げても木の天井が濡れている気配はない。
そうこうする間に、水滴は容赦なく蓮の頬を濡らした。
風が強くなったのか。
カタカタと窓が鳴る音が激しさを増す。
水は窓枠とガラスの隙間から、室内に飛び散っているようだった。
「ど、どうしよう……」
布を押し当てて、ガムテープで留めようと蓮は足元を見回す。
布団の際に、洗っていないハンカチが落ちているのを見つけて手をのばした。
その時だ。
蓮の額を頬を、水飛沫が叩いた。
同時にひょろりと頼りない体躯がその場で泳ぐ。
口は大きく開いていた。
おそらく悲鳴をあげているのだろうが、風の唸り声がその声を消してしまう。
暴風に押されるように窓枠が外れたのだ。
ゴウと凄まじい音をたてて突風が吹きこんできた。
ガラスが割れなかったのは幸いである。
風に乗って破片が飛んできたら下手をすれば大怪我をしていただろう。
「あ……わ、わ、わ……」
声にならない悲鳴が微かに聞こえた。
わずか一秒で蓮の全身は濡れそぼる。
狭い部屋はたちまちのうちにシャワールームと化した。
「ハンカチ……いや、バスタオル。いや、それよりも」
──逃げよう!
蓮がそう決意したのは、おたおたする彼の足元で水がチャプチャプと音をたてはじめたからだ。
窓から吹き込む雨だけではない。
浸水しているのだ。
あまりの雨量に、排水が間に合わなかったのだろう。
土の色をした水がくるぶしのあたりにせり上がってきて、蓮は初めて恐怖を覚える。
「に、逃げよう!」
叫んだのは、ともすれば恐怖に竦みそうになる自分を奮い立たせるためだ。
──でも、逃げるってどこに?
二階のおばあさんのところ?
いや、このアパート自体が危ない気がする。
だからって雨風きつい外へ飛び出すのも……。
玄関に向かって足を一歩踏み出しては戻り、躊躇は次第に恐怖に塗り替えられていく。
「せ、せめて……」
逃げるなら手ぶらで行くのは勿体ないと、貧乏性な思考が混乱に拍車をかけた。
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