凪の方が女性のように千紘の後をとぼとぼと着いていくのは絶対に嫌だと大股でベッドへと向かった。
掛け布団を捲り、シーツを直す。そこにドカッと色気もなく座る。甘い雰囲気とは程遠い中、千紘はゆっくりと凪と距離を詰めてその隣に座った。
凪は千紘の手に握られていたものに目をやる。それは潤滑剤だった。
「お、おまっ、なんでそんなもん持ってんだよ!」
動揺した凪の声が上擦った。凪も仕事でプレイする際に持ち歩いてはいるが、プライベートでそれを持っている人間など見たことがなかった。
「ん? 男同士には必要でしょ? だって凪痛いの嫌だって言ったじゃん」
「そ、そりゃ……でも、前は……」
そう言いかけて凪は、はっと言葉を呑んだ。前回のことを思い出し、千紘の視線が気になった。いつまたあんなふうに襲ってくるかと気が気じゃない。
けれど、邪悪な角を隠した千紘は柔らかく笑い、「前回はいっぱい時間があったからゆっくり時間をかけて解せたけど、今日は無理でしょ? 凪時間ないって言ったじゃん」と説明するかのようにゆっくりと言った。
前回のように凪の勤務時間を使って会うなら時間は無限にあるが、なんせ既に出禁の千紘には予約をする権利はない。
完全プライベートなこの時間は、凪がなんとか工面して作ったのだ。
「時間ねぇけど……」
「大丈夫。痛いことも、嫌がることもしないから。約束したでしょ」
凪の顔を覗き込むように下から見上げた千紘。その丸くて美しい瞳に凪の顔が映った。
「……絶対守れよ、約束」
まだ怯えている様子の凪に数回頷いた千紘は、「おっけ。じゃあ少しずつ触ってくから嫌だったら言ってよ」と言いながらようやくご馳走に手を伸ばした。
「ま、待った!」
これで心置きなく……と固唾を飲んだ千紘に激しい声が響く。ピタリと手を止めた千紘は、今待ったはなしだろ……とさすがに顔を引きつらせた。
手を伸ばしたまま硬直した千紘は、視線だけを凪に移した。
「ちょっと、まだ無理……かも」
ギュッと目を瞑る凪。そんな凪に、そうかそうかと優しく髪を撫でてやる余裕などもはや千紘にはなかった。なんせ時間がないのだ。グズグズしている内に時間切れ、なんてことになったらこの気持ちも体もやり場のないまま抑鬱状態になってしまう。
凪には悪いがもう待つことなんてできない。千紘はそのまま手を伸ばし、凪の顎に触れるとそのまま上を向かせて唇を重ねた。
「んっ!?」
驚いた凪は目を見開いた。体の異常を調べるため、検証するためだと体に触れさせることは許可したものの、キスは想定外だった。
もちろん普段の仕事中ならキスもプレイの一環だが、今は違う。男同士の恋愛に興味のない凪にとってキスはする必要のないものだった。
凪は咄嗟に千紘の手首を掴んだ。目の前の千紘はしっかりと目を閉じていて、長いまつ毛が流れているのが見えた。鼻筋はすっと綺麗に通っていて、やはりいつ見ても美しいパーツだと思う。
しかし、それはそれ。どんなに美しくても相手は男。それに嫌がることはしないと言ったくせに早速キスしてきやがったと眉をひそめた。
千紘はゆっくり唇を離した。懐かしく柔らかな唇の感触と、凪の香りを間近に感じ、それだけでそこそこ満足だった。もしかしたらもう二度と触れられないかもしれない。そう思っていたものに触れることができたのだから。
「おまっ!」
「凪、怖いことしないから。ゆっくりするから、俺に任せて」
唇が触れ合うギリギリの距離で千紘が言う。双方が喋ると吐息が唇にかかる。凪は、その震えた空気にゾクリと背筋に痺れを感じた。
「まっ……」
凪は、手首を掴む手の力を強く込める。制止の意味を持つが、千紘はそれを振り払うでも逆に掴むでもなく、掴まれたまま空いた方の手で凪の髪を優しく撫でた。
凪は、ピクンと体を震わせ首を窄めた。反射で目を瞑った隙に、千紘は再びキスをした。
凪の手が千紘の掴んでいた腕を滑る。表面は血管の盛り上がりがあって、感触だけで男性だと物語る。
後頭部を優しく撫でられ、指先で後ろから前に押し付けられる。そのせいで唇は口角まで深く重なった。
チロっと舌先だけ、触れる。まるで凪の反応を窺うかのように、強引に押し進めることはなかった。ゆっくり、さらっと微かに触れるだけ。
前回のねっとりとした強引で荒々しい獣のようなキスを想像していた凪は、その優しいキスに体を震わせた。驚いたのが先で、それから遅れて拍子抜けする。
今日はこのまま味見程度のキスだけかも。そんなふうに考えたところで、千紘の舌は徐々に凪の口内へと侵入する。
やっぱりそんなに甘くはなかったか……。そう抵抗しようとしてももう遅かった。千紘の舌は凪の舌の上を這い、熱いくらいの温度を感じた。半裸の千紘の体が密着し、シャワーを浴びたばかりで微かに湿っていた。
長い襟足は水分を含んでいて、ポタリと水滴が凪の首筋に落ちる。冷えた水滴が皮膚の上で弾けると、それと同時に凪の体も反応した。
「んっ……」
突然の冷たい刺激と、熱い口内とで凪の頭はふわふわと混乱した。普段ならキスだって主導権は自分にあるのに、こんなにも求められるキスは久しぶりでつい受け身になった。
凪を指名してくれる客は凪に身を委ね、凪からのキスに恍惚の表情を浮かべる。だから凪も安心して自分のペースにもっていけた。
新規の客や、飢えた客の中には自分本意に舌を絡めてくる女性もいたが、大体はベロベロと口内を舐め回されるだけで、品がなくてとても気持ちが悪いものだと凪は感じていた。
それも固定の客がつけば、出会す確率もぐんと減った。
そんな中での千紘からのキスは、濃厚でありながら少しずつ刺激を与えるような心地良いものだった。
コイツ……キス、うまっ……。
凪は再び呑まれてしまわないよう、千紘の腕を掴んだ。前回は恐怖に支配されて、千紘のキスに集中することなどなかった。しかし、ゆっくりと流れる空間の中で優しいキスから始まった体温は、少しずつ凪の体に浸透していった。
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