テラーノベル
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「信じられない。あの鉄壁騎士、まだそんな余裕な顔をしてるわけ?」
呆れ果てたような声とともに、繊細な意匠が施されたティーカップが、ソーサーの上へとカチャリと戻された。
陽光が降り注ぐ豪奢なテラス席。
色とりどりのバラが咲き誇る庭園を背景に、私と向かい合っているのは、親友のアイラだ。
彼女は伯爵令嬢でありながら、王都の恋愛事情に誰よりも精通し
数々のカップルを成立させてきた自他共に認める「恋の戦略家」でもある。
「そうなの……。昨日の夜もね、わざと隣国の王子の話を出してみたのよ?」
「アルくんはさ、私が他の男の人と踊るのどう思う?って。それなのにアルくんたら、『君がそうしたいなら、止める権利は僕にはないよ』なんて、聖者のような微笑みで返してきたの」
「……もう、私のことなんて、守るべき妹か、手のかかる幼馴染としか思ってないんだわ」
昨夜の執務室の光景が脳裏をよぎる。
アルくんの腕の中は、私の凍えた芯まで溶かすほどに熱かった。
重なり合った手からは、確かに彼という人間の存在を感じられたのに。
それなのに、紡がれる言葉はどこまでも涼しげで
波風一つ立っていなかったのが、余計に悲しかった。
「甘いわね、エマ。いい?アルヴィン卿みたいな『完璧な騎士様』タイプはね、自分がエマの守護者だって自負が強すぎるのよ」
「自負?」
「長年そばにいて、誰よりも自分が必要とされているっていう圧倒的な余裕。それが彼の理性の源なの。だから、ちょっとやそっとの嫉妬じゃ、その厚い仮面は剥がれないわ」
アイラは悪戯っぽく、けれど鋭い光をその瞳に宿すと、テーブル越しに身を乗り出して私に囁いた。
「必要なのは、彼が『自分の居場所が奪われる』と本能で理解するほどの、強烈な刺激。つまり、本気のハニートラップよ」
「ハニートラップ……。そんなの私にできるかしら……具体的に、ハニートラップなんて言っても、なにをどうすればいいの?」
私の問いにアイラは待ってましたと言わんばかりに
マニキュアの塗られた指を一本立てて、不敵な笑みを浮かべた。
「簡単よ。今まで彼にだけ向けていた『特別』を、あえて他の男に分散させるの」
「え、他の男性に?」
「でも、ただ男好きっぽく振る舞うんじゃないわ。エマはあくまで『聖女』らしく、無垢に、残酷に彼を追い詰めるのよ」
「ええ…なんだかすごく難しそう……」
「私が全部考えてあげるから、そうと決まれば今から作戦会議よ!」
アイラが立てた指が、一つ、また一つと増えていく。
「ステップ1。まずは『距離感のバグ』。いつも治療で密着している分、日常ではあえて一歩引くの」
「…前にアイラが言ってた「押してダメなら引いてみろ」って作戦?」
「それと同じね。彼がいつものように優しく触れようとした瞬間に、ふいっと、無邪気に避ける。これ、自分の特権を否定されたみたいで、地味に効くのよ」
「避けるなんて……できるかな。アルくん、悲しそうな顔をしないかしら」
「どんな顔されてもやりなさい!」
「…わ、わかったわ」
「そしてステップ2。これが本命ね、他の男から贈られた『形』を、これ見よがしに見せつけるの」
「形って?」
「例えば、そうね……。今度の園遊会で、彼以外の男から贈られたリボンを一番目立つところに結んでいくとか?騎士にとって、自分が守るべき女性が他人の色を身に纏うのは、最大の屈辱よ」
アイラのアドバイスは、どれも私の心臓を激しく打ち鳴らすものばかりだった。
アルくん以外の男の印を身につける?
そんなことをしたら、彼は一体どんな顔をするだろう。
眉をひそめるだろうか。
それとも、やっぱり「よく似合っているよ」と、物分かりの良い幼馴染として笑うのだろうか。
「……もし、それでも彼が笑っていたら?何事もなかったかのように振る舞われたら……私、もう立ち直れないわ」
「そのときは、最終段階。ステップ3よ───『治療の中止』を宣言するの」
「治療の中止?」
「そう!『アルくんにこれ以上迷惑をかけたくないから、これからは他の人に癒やしてもらうことにしたの』…って、とびきり綺麗な笑顔で突き放してごらんなさい!」
アイラの言葉に、私は思わず息を呑んだ。
魔力酔いの治療。
あの、背中から包み込まれるような熱い抱擁。
それは私とアルくんを繋ぐ、唯一の
そして絶対的な絆だ。
それを自ら断ち切るなんて、考えただけで胸が締め付けられる。
「彼が本当にエマを愛しているなら、その瞬間に理性のダムが決壊して、隠し持っていた獣の独占欲が漏れ出すはずよ」
アイラは楽しそうに、スコーンにたっぷりのクロテッドクリームを乗せて口に運んだ。
彼の余裕を、ぐちゃぐちゃにする。
完璧な騎士様の顔を壊して、私だけを見つめる一人の男に変えてみせる。
そのためには、私自身もこの「優しい幼馴染」というぬるま湯のような安らぎから
勇気を出して踏み出さなければならない。
「……わかったわ。やってみる、絶対アルくんのことその気にさせてみせる!!」
「その意気よ、エマ!狙った獲物は逃しちゃダメよ!」
突き抜けるような青空の下、親友の頼もしい笑い声がテラスに響き渡る。
私は、まだ少し震える手で、冷めかけた紅茶をぐいっと飲み干した。
アルくん、覚悟して。
あなたが「聖女」としてではなく
私という「女」に溺れさせてみせるんだから!
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