𓏸𓏸がキッチンへ戻ると、リビングにまた静寂が降りた。パンの温もりや𓏸𓏸の声が消えて、
涼ちゃんの心には、急に冷たい風が吹く。
(……やっぱり、少し怒らせちゃったのかな)
ほんの一言しか返せなかった自分、
せっかく作ってくれたごはんを途中でやめてしまった自分――
そうした小さなやりとりが、
どんどん胸の中で大きくなり、
ぴりぴりと痛くなっていく。
(どうして素直に食べられないんだろう……
また𓏸𓏸に心配かけて……
やっぱり、僕なんていない方がいいのかも)
思考の渦に呑まれながら、
ソファの隅に置かれたカッターに手が伸びてしまう。
涼ちゃんは、小さな衝動と自己嫌悪に押されるまま、
そっと右手首にカッターを当てて、
薄く傷をつけた。
すぐにじわりと滲む血。
(どうして、どうして止められないんだろう
せっかく、もう一度やり直そうとしているのに――)
胸が苦しい。
けれど、どこかで「これくらい当然だ」とさえ思ってしまう自分もいる。
そのとき、キッチンから𓏸𓏸が戻ってくる。
𓏸𓏸は一瞬で状況を察し、
何も言わず、静かな声で「今から手当てするね」とだけ告げて、
救急箱を持ってきた。
𓏸𓏸は涼ちゃんの右手をやさしく取り、
傷口をそっと消毒する。
涼ちゃんは、𓏸𓏸のまなざしを見ていると
胸がぎゅっと痛んだ。
(どうして優しくしてくれるの……
こんな僕なのに、
こんなことしてしまったのに……
もっと怒って、呆れてくれたら
少しは楽なのに)
痛みと後悔と、ほんの小さな安堵。
でも𓏸𓏸の手は、ただ静かに、優しく――
自分を責めようとする涼ちゃんの心ごと
そっと包み込んでくれる気がした。
リビングにはふたたび、
静かで、でもどこかやさしい時間が流れていた。