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潮騒が遠く響く小さなアパートの一室で、生まれたばかりの赤ん坊が深い眠りについていた。かつての神童、出木杉は労働で荒れた手で静かに資料をめくり、明日の仕事の段取りを考えていた。そこへ、産後の柔らかな光を纏った静香が、背後からそっと彼に寄り添った。「出木杉さん……」
彼女の指先が、彼の逞しくなった肩をなぞる。その瞳には、以前よりも増して深い湿り気と、一度知ってしまった「生命を宿す悦び」への渇望が宿っていた。
「どうしたんだい、静香。まだ体が休まっていないだろう」
出木杉が優しく諭そうとすると、静香は首を振り、彼の胸に顔を埋めた。彼女の体からは、今もなお微かに甘い母乳の香りが漂っている。
「この子が愛おしすぎて……。私、もっと欲しいの。あなたと私の証が、もう一人。今すぐにでも、あなたのすべてを私の中に注いでほしい」
その言葉は、かつてのマドンナからは想像もつかないほど直接的で、本能に忠実な求愛だった。出木杉は一瞬、理性を働かせようとした。今の生活の困窮、逃亡生活の不安定さ。しかし、彼女の熱い吐息が首筋に触れた瞬間、彼の論理回路は呆気なく崩壊した。
彼は静香を抱き寄せ、その唇を塞いだ。二人の間に、もはや言葉も、薄いゴムの膜も、未来への不安さえも入り込む隙間はなかった。
「……分かった。君が望むなら、何度でも、いくらでも」
出木杉は彼女を布団へと誘い、再びその肌を重ね合わせた。授乳を経てさらに豊かになった静香の胸から、奇跡の雫が溢れ出し、彼の胸を濡らす。彼はそれを惜しむように飲み干し、彼女の深淵へと、新たな命の種を植え付けるべく深く、激しく突き進んだ。
毎晩、赤ん坊の寝息を隣に聞きながら、二人は獣のように、あるいは神聖な儀式を執り行う司祭のように、剥き出しの肉体を交わらせ続けた。避妊という概念を完全に捨て去ったその行為は、彼らにとって唯一の「生」の証明だった。
数週間後、再び手にした検査薬には、予期していた通りの二本線が浮かび上がった。
静香は、まだ小さな一人目を抱きながら、確信を持って二体目の命が宿った腹部を愛おしそうに撫でた。出木杉はその光景を見て、自分がエリートとしての将来を捨て、この果てしない泥濘のような、けれど眩いほどに濃密な愛の世界を選んだことが、人生最大の「正解」であったと確信した。
逃亡者としての孤独な日々は、こうして家族という名の増殖を繰り返しながら、誰にも知られないまま、さらに深く、暗く、そして熱く加速していく。