長いこと呼出音が鳴って、やっぱり出ないかと凪が電話を切ろうとしたところで「な、凪!?」と半ば焦ったような声が聞こえた。
「あ……出た」
「出たって、だって」
「仕事は?」
「仕事中……」
「だろうな」
出ないと思いながらかけたのに。凪は心の中でボソッと呟きながらスマートフォンを持ち上げた。
「仕事中ってわかってたのにかけてきたの?」
「出ないと思って」
「意地悪だ」
「でも出たじゃん」
「……お客さんのカット途中にしてきちゃった」
「何してんだよ」
想像したらおかしくて、凪はぶはっと笑った。プロ意識の高い千紘が、客のカットよりも自分の電話を優先したことに呆れる反面、少しだけ嬉しくもあった。
「だって、凪から電話なんて……俺、嬉しくて」
「連絡するって言った……」
「うん……。でも、ちょっともう、諦めてて……」
電話の向こう側では千紘が泣きそうな声を震わせていた。不安だったんだろうな、と簡単に想像できた。
けれど凪だって心の余裕がなかったのだ。そこに関して謝る気はなかった。
「明日、休みだろ?」
「へ? あ、うん……」
「俺暫くまともなもん食ってない」
「えっと、じゃ、じゃぁ……」
多分飯食いに行く誘いだと思ってんだろうなぁ……。
凪はそう思いながら「作って、飯」と千紘の言葉を遮った。
「え? 作っ……いいけど、別に」
思っていた言葉と違う言葉に驚いたのか、千紘の拍子抜けした声がおかしい。凪はまたクスクスと笑いながら口元を押さえた。
久しぶりに外出したが、まだ他人と同じ空間で食事をする気にはなれなかった。コンビニかテイクアウトくらいが丁度よく、外食はハードルが高い。
千紘が作ってくれるなら、一緒に食事くらいしてもいいかと思えた。
それに凪の健康を考えて千紘が食事を作ったら、自然と千紘の食事もバランスが取れたものになる。
これで千紘だけ健康そうな顔をしていたら、その頭ひっぱたいてやる。なんて物騒なことを考えてみる。
「あ、つか明日用事あんの?」
「な、ない! ないない!」
勢いよくそう言う千紘。凪との約束を取り付けようと必死な様子に予定があったんじゃないかと勘ぐる。
「予定あんなら別日でも」
「ないってば! いつでも空いてる! 今夜でもいい!」
怖いくらいの気迫が感じられて、凪はそっとスマートフォンを遠くへ置いた。
「今夜は急すぎるだろ」
凪は言いながらテーブルの上に臥せった。スピーカーからはざわざわとした音は聞こえない。おそらく店の外に出ているのだろうと思えた。
「じゃあ、明日?」
「うん」
「何時?」
「んー…」
「朝」
「朝はお前が起きれないだろ」
「凪と会えるって思ったら起きれるよ! なんなら寝なくても大丈夫!」
「寝ろよ」
久しぶりのやり取りだというのに、あまりそんな気がしなかった。うるさい目覚ましで起きない千紘もすぐに思い出せたし、あどけない寝顔も頭に浮かんだ。
更にじっと寝ずに待っている千紘すら想像できて、凪は顔をしかめた。
「えー、楽しみになっちゃう」
さっきまであんなに泣きそうな声をしていたのに、一変して千紘の声は弾んでいた。
「飯食いに行くだけだし」
「何食べたい?」
「体に良さそうなもの。あ、でもそんなにガッツリ食えないかも」
「じゃあ、適当に作って待ってる。お昼にしよう」
「ん……」
朝は起きられないことに納得したのか、千紘は自らランチの提案をした。たった1日しか休みがない千紘にとっては、夜遅くなることが辛いはずだ。
早めに会って早めに解散するくらいがちょうどいいと凪も思った。
今回のことがある前には、数週間連絡も取らずに会わなかった期間もあった。それを思えば1ヶ月も経たない内に連絡をして、会う約束をした今回の期間は大したことではない。
けれど、凪と千紘にとってこの2週間は途方もなく長い時間に感じていた。体感としては何ヶ月も経っている。
実際に離れていた期間ではなく、心が離れていた時間が2人をそう思わせた。
「凪、連絡くれてありがとうね」
「……お前からきてたらしなかったかも」
「わぁ……。俺、我慢してお利口さんだったね」
「自分で褒めてんじゃねぇよ」
「本当はね、連絡したかったんだよ」
「うん」
「凪の声聞きたかった」
「そう」
「好きだから我慢した」
素直な千紘の声が真っ直ぐ凪の耳に届いた。なんだかくすぐったい気分になって凪はふっと頬を緩めた。
数回やり取りをして電話を切ると、千紘は店に戻った。心は踊るように軽やかで、口角が自然と上がった。
凪に突き放されてから1日仕事を休んだが、結局翌日にはいつも通り出勤した。どんなにプライベートで嫌なことがあっても、プロ意識を捨てられないのが千紘だ。
それに仕事をしていた方が嫌なことを忘れられた。客に笑顔を向けてカットに集中している間だけは、凪のことを忘れられた。
けれど不意に凪の髪を切ったセット面が目に入ると、予約をキャンセルされた事実を思い出して気が沈んだ。更に帰宅すると四六時中凪のことを考えて眠れなかった。
食欲も湧かないが睡眠も思うように取れない。そんな中仕事へ行けばまた少しの間は忘れられる。その繰り返しだった。
そうこうしている内に、とうとう寝ないわけにもいかなくなって、何時間かぐっすり眠れる時が数日に一度やってきた。
それでも今まで安眠していたことを思えば、毎日寝不足には変わりなかった。体は重くて怠くて頭痛もした。そんな体調不良の中、また凪のことを思い出す。
あまり眠れないと言っていた凪は毎日こんな感じなんだろうかと。どんな時でも凪のことを考えて、無意識に結びつけていた。
その毎日にいやいやながら慣れ始めていた。このままずっと凪から連絡がこなかったら、自然と忘れられるまでこんな日々を送らなきゃいけないのかと辛かった。
ふらふらと凪と一緒に行った居酒屋に足を運んだり、テイクアウトしたピザと同じものを選んだり。食べられないくせにあの時と同じように2人前頼んだ。
ピザの匂いからあの日を思い出して芋づる式に凪の顔を思い浮かべた。恋しくてたまらなくて、何度も連絡先を表示してはホーム画面に戻ってを繰り返した。
凪からの連絡を待とうと思っても、このまま一生こないかも……なんて考えると心を抉られた気分だった。
しかし、先の見えない真っ暗闇にいた千紘に突然光が当てられたのだ。
普段なら仕事中にプライベートの電話など出ない。凪はきっと仕事中にはかけてこないだろうから、見る必要もない。そう思っていた。
それなのに少し長めのバイブレーションに疑問を抱いて相手の名前を確認すれば、目玉がこぼれ落ちるんじゃないかと思うほどに驚いた。
あとは客に断りを入れてその場を後にした。後でかけ直すなんて考えは微塵もなかった。今すぐに凪の声が聞きたくて、少しでも会話がしたかった。
凪の声を聞いたら、体の底からうわっと一気に感情が溢れ出して泣きそうになった。
今すぐ会いたいと思った。仕事も放り出して会いに行きたいと思った。それでも千紘はなんとか踏ん張って、まずは凪から連絡がきたことに感謝しようと喜びを噛み締めた。
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