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部屋で泣きたくないとはいえ、街中で泣くなんてみっともない。
かといって、ひとりカラオケボックスに入るのは虚しいし、雑居ビルの片隅だって同じだ。
瑞希は適当な場所を考えた。
その結果、思い至ったのが映画館だった。
泣ける映画を見ているふりをして、思い切り泣いてやろうと決めた瑞希は、レイトショーに滑り込み、映画が始まると同時に声を殺して泣いた。
振られた相手を追いかけるなんて、情けない女みたいでプライドが許さない。
だから映画が流れている間に涙を流し切って、和明のことなんて忘れて、映画館に行き場のない気持ちを置いていこうとした。
和明への気持ちが完全に置き去れたのかはわからないが、一度決めたらあとは突き進むだけで、それからの瑞希は、自分を叱咤して仕事に没頭した。
年度末の忙しさが、この時は幸いしていた。
和明とは同じフロアだから、会社ですれ違うこともあった。
瑞希には悔しいくらい普段通りに思えた。
だから自分だけがダメージを受けていると思われたくなくて、無視したり、泣き付いたりしたら惨めだと、挨拶だけは交わした。
和明も同じように接して、表面上は互いのことが風化し始めたようにみえた。
それから数か月が経った時、和明に経理の新人社員と付き合ってるという噂が流れた。
瑞希は頭を殴られたような衝撃に襲われた。
瑞希との関係をあれだけ公表したがらなかった和明と、入社したての女と噂なんて、信じられなかった。
デマだと自分に言い聞かせても、噂は一向に治まらない。
そうしてふたりの交際が社内で周知の事実にかわる頃、瑞希はようやくわかった。
公表したがらなかった理由は、和明にとって瑞希は、その程度の女でしかなかっただけだと。
和明のことで泣かないと決めていた瑞希は、これが最後だともう一度泣いた。
悲し涙じゃなく、悔し涙だった。
(―――もう、嫌なことを思い出しちゃった)
気が滅入った瑞希は、すれ違った和明からすぐに目を逸らした。
入れ替わりに和明が給湯室に入ると、思わずため息をつく。
もう一生顔を合わせたくない相手なのに、部署は違えど同じ会社なのは、本当にキツイ。
(いけない、仕事、仕事……)
瑞希は暗示のように心で唱えつつ、企画部に戻った。
コーヒーを飲みながらメールをチェックをしていると、始業の号令がかかった。
瑞希はスケジュール帳を片手に、パテーションで仕切られたブースに移動した。
そこで各々の進捗状況を報告するところから、企画部の一日が始まる。
ミーティングは15分ほどで終了し、解散した後は前日の続きに入った。
使用したリスティング広告の金額を、クライアントごとに確認する。
すべて報告し終えると、午前の業務を終えた。
午後からは営業二課との打ち合わせだった。
打ち合わせの後はデスクに戻り、広告のアクセス解析や予算の変動など、数字の分析を始める。
分析結果はクライアントに提示したり、営業との打ち合わせに使ったりする大事な資料だ。
瑞希はエクセルやパワーポイントを使って、ひたすらデータを入力する。
そうして定時を過ぎ、他の社員がまばらになった頃、ようやく瑞希はパソコンの電源を落とした。
(疲れたー、今日はこのくらいにしよう)
大きく伸びをして立ち上がると、向いで資料の山に埋もれた同期の神田が「帰るの?」と声をかけてきた。
「うん、そろそろ帰る お腹もすいたし」
「あ、そうだ
俺チョコ持ってるよ 食べる?」
「え、くれるの? ありがとう」
瑞希は喜んで神田からアーモンドチョコを一粒もらう。
疲れた体にはこれ以上なくおいしく感じて、笑顔になった。
「それ、うまいだろ」
鷹揚に言う神田に、瑞希は「うん」と頷く。
「じゃ、ごちそうさま がんばってね」
そう言って鞄を掴んだ途端、神田が慌てて「ちょっと待って」と言った。
「……なに?」
「さっきのチョコ、うまかっただろ」
「うん、そうね……」
何度も同じことを言われ、瑞希はなんだか嫌な予感がした。
神田は「うまいだろ、そうだろそうだろ」と頷いたあと、わざとらしい咳払いをする。
「それでだな、芹澤くん……
アイ・ビーネットの広告なんだけど、この納期が今日中なんだ」
「……は? 知ってるけど……」
瑞希の顔が一気に歪む。
だけど神田は両手を顔の前で合わせてるから、そんな瑞希の表情を見ていなかった。
「……頼む! マジでやばいんだよ 手伝ってくれ!
神さま、仏さま、芹澤さま…!」
大きなため息をついた瑞希は、じろりと神田を横目で見る。
「なにそれ
チョコなんてくれるから、なんか怪しいと思ったよ」
「今度チョコだけじゃなくて、なんか奢るから頼む、手伝ってくれ
ほんとにマジでピンチなんだ」
縋るような神田に、瑞希はため息をついた。
(たしか、アイ・ビーネットは期限の短い依頼だったよね……)
ミーティングでの神田の話を聞いていたから、大変な依頼なのは知っている。
けど、受けたからにはなんとしてでもやりきるのが仕事だ。
甘ったれるな!と言いたいけど、間に合わなければ会社の信頼を失うし、似たような案件を抱えている瑞希は、置かれてる現状と大変さがよくわかっていた。
(もう、仕方がないなぁ……)
瑞希はわざとらしくため息をつくと、どすんと椅子に座り直した。
「チョコ一粒じゃ、納品するまで手伝えないよ
せいぜい二時間ってとこだから」
うろんな目を向ければ、神田は疲れ切った顔をぱっと綻ばせた。
「それでもいい、ありがとう! 助かった」
嬉々として資料の一部を手渡され、もう一度ため息をついた。
現在時刻は20時を過ぎている。
納期まではあと四時間。
「絶対にそっちも二時間で終わらせてよね」
「おう!」
そうして瑞希は今しがたシャットダウンしたパソコンの電源を入れ直した。