玄関のドアが、静かに閉まった。
「……」
涼ちゃんは何も言わず、靴を揃える。
照明をつけると、いつもと同じ部屋なのに、やけに広く感じた。
上着を脱ぎ、バッグを置く。
スマホはテーブルに伏せたまま。
通知が来ているのは分かっていた。
でも、画面を見る気になれない。
キッチンに立つ。
冷蔵庫を開け、中を確認する。
(あるものでいいか)
包丁を取り出し、まな板の上に野菜を置く。
トントン、トントン。
一定のリズムで刻まれる音が、部屋に響く。
何も考えなくていい。
音に合わせて、手を動かすだけ。
フライパンに火をつける。
じゅっと油がはねる音。
「……」
昔は、この時間に
今日のリハのことを思い返したり、
次のライブの話を考えたりしていた。
今は、何も浮かばない。
ただ――
「キーボード担当」という言葉だけが、頭の中で繰り返される。
(それでいい)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
皿に盛り付けても、彩りは気にしない。
味見も最低限。
食卓に座り、箸を持つ。
一口。
……味がしない。
空腹なはずなのに、
食べる行為が、作業みたいだった。
箸を動かしながら、ふとキーボードに視線がいく。
部屋の隅に置かれた、いつもの位置。
(あれがあれば、俺は成立する)
人じゃなくて、役割として。
「……」
涼ちゃんは、また一口食べる。
誰にも話さず、
誰にも聞かれず、
ちゃんと生きてる“ふり”をする夜。
洗い物を済ませても、
部屋は静かなまま。
テレビもつけない。
音楽も流さない。
今日は、音を出す気になれなかった。
涼ちゃんはキッチンの明かりを消し、
暗くなった部屋に立ち尽くす。
(このまま、何も言わなければ)
(誰も、困らないよな)
答えは出ないまま、
夜だけが、静かに進んでいった。
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