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一時退院という名の、二人きりの看病生活。
若井の不器用な献身によって、元貴の顔色には少しずつ赤みが戻っていた。
けれど、二人の幸福は、薄氷の上に成り立つ危ういものだった。
その日の昼下がり。
若井はリビングで、部活の遠征資料に目を通していた。
元貴はソファーに座り、若井の膝に頭を預けて読書をしている。
「……ねぇ、若井」
「ん?」
「さっきから、外でずっと工事の音してる?」
「工事? ……いや、してないぞ。
今日は日曜日だし、この辺は静かなもんだろ」
若井が不思議そうに窓の外を見るが、そこには風に揺れる木々があるだけだ。
元貴は「そっか……」と小さく呟き、また本に目を落とした。
しかし、その指先がわずかに震えているのを、若井は見逃さなかった。
異変が決定的な形となって現れたのは、その数時間後だった。
「元貴、喉乾かない?
涼ちゃんに教わったハーブティー淹れてやるよ」
若井がキッチンから声をかける。
「……」
元貴は答えない。
読書に集中しているのかと思い、若井はキッチンから歩み寄って、元貴の肩を軽く叩いた。
「おい、元貴——」
「……っ!? うわぁぁぁ!!」
元貴が悲鳴を上げて、
ソファーから転げ落ちた。
本が床に散らばり、元貴は自分の耳を両手で塞いで、ガタガタと震えている。
その瞳には、恐怖を通り越した絶望が浮かんでいた。
「元貴! どうした、俺だよ! 若井だよ!」
「こ、来ないで……! 大きい音が……っ、若井の声が、頭の中で爆発してる……!」
若井は衝撃で固まった。
自分はただ、普通に名前を呼んだだけだ。それなのに、元貴にはそれが「爆音」として届いている。
さらに異常だったのは、元貴の左耳から、一筋の血が流れていたことだった。
「……血、出てるぞ。動くな、今救急車を——」
「……え?」
元貴が、ピタリと動きを止めた。
「……若井。いま、なんて言った?」
「え……? 救急車を呼ぶから、動くなって……」
元貴の表情から、色が消えた。
「……聞こえない」
「は……?」
「若井の口が動いてるのは見える。
でも、音が……一滴もしないんだ。
……真っ暗だ。音が全部、消えちゃった……」
さっきまでの爆音はどこへ行ったのか。
世界からすべての音が奪われたような、完全な無音。
元貴の視界から、若井を象徴するあの「オレンジ色の光」が、砂のようにサラサラと崩れ落ちていく。
「嘘だろ……。元貴、おい! 聞こえねえのか!?」
若井は元貴の肩を掴んで、何度も、何度も名前を呼んだ。叫んだ。
けれど、元貴の瞳には、もう若井の姿は映っていないようだった。
ただ、静かに流れる耳からの血が、白のパジャマを赤く染めていくだけ。
「……あ、あぁ……っ」
若井は、元貴を抱きしめることさえ忘れて立ち尽くした。
自分の声が、愛する男に届かない。
それは、世界で一番残酷な断絶だった。
その時、玄関のチャイムが鳴り、鍵を開けて入ってきたのは藤澤涼架だった。
彼は修羅場と化したリビングを見て、驚くこともなく、ただ悲しげに目を細めた。
「……始まったんだね。第二段階。
……『音の喪失(サイレンス)』」
涼ちゃんの手には、昨日までとは違う、もっと強い薬の入った瓶が握られていた。