テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
元貴の耳から音が消えて、三日が過ぎた。
検査の結果は「一時的な心因性および神経性の難聴」。
脳の異変が聴覚を司る部分に干渉しているという。
元貴は再び病院のベッドの上にいた。
以前のように怒鳴ることも、泣くこともしない。
ただ、窓の外を流れる雲を、感情のない瞳で追い続けている。
(……若井の声が、思い出せない)
それが、元貴にとって何よりの絶望だった。
かつては「うるさい」とさえ思っていた若井の笑い声、自分を呼ぶ甘い熱を持った声。
それがどんな響きだったのか、記憶の砂の中から指ですくい上げようとしても、サラサラとこぼれ落ちていく。
「……」
病室のドアが開き、若井が入ってきた。
彼は練習帰りなのか、少し息を切らしている。その手には、一冊の真新しい**「スケッチブック」**と太いマジック。
若井は元貴の正面に座ると、マジックを走らせ、勢いよくページをめくって見せた。
『 おはよう。飯食ったか? 』
殴り書きされた文字。元貴はそれを見て、力なく微笑んだ。
「……食べたよ。美味しくなかったけど」
自分の声が自分でも聞こえない。
自分の声の大きさが分からず、元貴の声は掠れていた。
若井はすぐに次のページを書く。
『 今日、涼ちゃんと曲の続き整理したぞ。お前の作ったメロディ、最高にかっこいい。 』
元貴は胸の奥がチクリと痛んだ。
自分はもう、その「最高にかっこいいメロディ」を聴くことができないのに。
「若井……もういいよ。そんなことしなくて」
「……?」
「もう、学校に戻りなよ。部活も……僕のことは、涼ちゃんに任せて……」
元貴が視線を伏せると、視界の端で若井が激しく動いた。
バサバサとページをめくる音さえ聞こえない。
けれど、元貴の目の前に突きつけられた文字は、紙を突き破らんばかりの筆圧で書かれていた。
『 ふざけんな。俺を誰だと思ってんだ。 』
若井はスケッチブックを床に放り投げ、元貴の頬を両手で挟み込んだ。
そして、元貴の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと、口の形を大きく動かして伝えた。
( お ・ れ ・ は ・ お ・ ま ・ え ・ の ・ ヒー ・ ロー ・ だ )
元貴の瞳が揺れる。
若井は元貴の左手を自分の胸元、心臓の鼓動が一番強く響く場所に押し当てた。
( 音が聞こえないなら、俺の鼓動を聴け。声が届かないなら、俺の体温を読め。 )
若井の心臓は、まるで激しいドラムのように、ドク、ドクと元貴の掌を叩いた。
それはどんな音楽よりも雄弁で、どんな言葉よりも熱い、若井からの叫びだった。
「……あ……」
元貴の視界に、一筋の閃光が走った。
消えていたはずの「オレンジ色」が、若井の鼓動に合わせて、小さく、けれど確かに脈打つように現れたのだ。
(ああ……そうだ。若井は、こういう色をしてた……)
元貴は若井の首に腕を回し、その広い背中に顔を埋めた。
聞こえなくても、分かる。
若井が今、自分の耳元で「大丈夫だ、愛してる」と何度も繰り返していることが。
その熱い吐息が、何よりの証拠だった。
その夜。
病室の外で、涼ちゃんが若井を呼び止めた。
「……滉斗。手話、覚え始めたんだって?」
「ああ。アイツが一番不安なのは、言葉が通じなくなることだからな。……でも、涼架。これだけは教えてくれ」
若井は、それまで見せていた強気な表情を消し、震える声で聞いた。
「……元貴の病気、本当はもっと……悪いんだろ。音が消えるだけじゃ、済まないんだろ」
涼ちゃんは、手に持っていた元貴のノートを強く握りしめた。
「……次の予兆は、視覚。……色が、消えるよ。滉斗、君のオレンジ色も、いつか見えなくなる」
若井は拳を握り、夜の廊下を睨みつけた。
「……見えなくなったら、触れさせてやる。俺の形が、指先に焼き付くくらいにな」