テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
亜鐘の局は中廊を真っすぐ行って一番奥の左。
ちょうど裏の山を正面に見た場所に位置している。
ここを選んだのは、山の緑を背景に庭ごしらえをするためとのことだった。
庭は岩や石、緑が計算の上で配置されており、美意識に欠けるわたしですら風景に心を打たれたのを覚えている。晴明さまも喜んでいて、きっとああいうのを『あはれ』って言うんだろうなと感心したものだ。
ただその庭は土砂崩れで台無しになったし、山はわたしがめちゃくちゃにしてしまった。もう庭の美は見る影もなくて責任は感じているけど、当事者のわたしが手伝うと言えば嫌な顔をされそうで怖く、まだ言い出せない。
「亜鐘姉さまー?」
わたしは遣戸の前で膝をつくと、中に向かって呼びかけてみる。だけど反応が返って来ない。
耳を澄ます。
と、気配がある。でも中にいるようないないような。
「夜火です。もしかしてご気分優れませんか? 開けますよ」
わたしは語りかけてから少し間を置いて、遣戸を少しだけ横へ滑らせた。やはり反応がなく、わたしは細い隙間からそっと中を覗く。
局の端には畳が据えられ、空薫物、空櫛笥、鏡台などが整然と並んでいた。いつもの設えだけど、肝心な彼女の姿が見当たらない。
「亜鐘姉さま? 御加減いかがでしょうか?」
今度は戸を全開に開いた。
やはり局の中に彼女はいない。だけど、
「あ、夜火」
声が聞こえてきたのは局の向こう。吹き抜けになっている庭から。
視線を向けると庭で腰を折り、泥まみれの汗まみれになっている亜鐘姉さまの姿があった。髪や顔にこびり付いた泥は乾燥してひび割れていて、柔らかく整った顔立ちが台無しだ。
指もケガをしたのだろうか。布が厚く巻かれている。
「あ、なに、なにをなさってるんですか? そんな泥だらけに……」
「お庭をね、直しているの」
「だけど、まだ土は水を吸っていますよ? あともうちょっと経ってからでないと。せめて朝餉を召し上がって……」
「それじゃ、遅いのよ」
亜鐘姉さまは腰を真っすぐに直し、遣戸にいるわたしを見つめた。
穏やかないつもの顔だったけど、体温が通わない光を失った目だった。
「晴明さまはね」
愛姉さまは面持ちを変えず、庭を見回した。
「きっとお庭の景色がこんなだから、わたしのところへ来てくださらなかったと思うの。もっと美しく整えないと」
「え……、と」
言葉に詰まる。晴明さまは相手を選ばない。定まった順番に従うだけだ。
「あ、あの。じゃあ、手伝いましょうか?」
……髪は、使えないけど……。
「ほら、亜鐘姉さまが泥だらけになるなんて似合わないし、力仕事はわたしの……」
「いらない」
冷たく乾燥した口調で、亜鐘姉さまは言った。
このとき、わたしはようやく彼女が自分に向けている感情に思い当たった。
本来なら昨夜は亜鐘姉さまの順番。だけどいままで飛ばされていたわたしが入ったから……。昨日の上機嫌もたぶん……。
「夜火は味方だと思ってたのに」
「あの、亜鐘姉さま……。あの、他の姉さまたちをないがしろにするつもりなんてなくて……。昨夜はその、晴明さまの気まぐれというか……」
「ううん。そんなこと気にしちゃいけないわ。ここはそういう場所だもの。あなたは横入りしたわけじゃないでしょう」
亜鐘姉さまは腕でぐいっと顔を拭う。でも湿った土が顔に広がっただけで、それは……、口元に異様な笑みを湛える化粧のように見せた。
「でも、思うところはあるわ。わたしは夜火よりも美しくないかしら? あの人に気に入られるように、たくさん勤しんできたのに」
「そんなこと、ありませんよ……。どうか怒らないでください」
「ううん。怒ってなんかないの」
亜鐘姉さまは表情だけで笑んで簀子縁に腰を下ろした。こちらに背を向ける形で、彼女は少し首を捻ると、その冷たい目でこちらを見る。針でも潜んでいるのかと思うほど、とても痛く感じた。
「わたしも晴明さまに振り向いてもらえるように、もっと美しくならないといけないわ。字も練習して……、でもあの方は歌や漢詩に無関心だから。そうだ、髪を綺麗にしましょう。晴明さま、綺麗な髪がお好みかもしれないわ。夜火だって髪だけは烏の濡れ羽のように綺麗だものね。わたしももっと伸ばして、泔でたくさん拭いて……。髪の感じを変えるなら、香も変えた方がいいかしらねえ。晴明さまはどのように合わせたら喜んでくださるかしら。ああ、琵琶の練習にも勤しまないと」
泥だらけの面持ちを変えず、彼女は早口でまくし立てた。
「お許しください。わたしは……」
「他の姉さまたちはね、仕方ないの。特に陸燈姉さまなんか、ほら、女のわたしでも見惚れるような美しさでしょう? わたしはいつも羨ましくて。でもお庭の修繕は断られたのよ。土偶人はこしらえるだけで呪をたくさん使うからって。ここのところは物騒な気配がずっとあるし、その間に穢悪でも出たら大変だって仰るの。いけずと思ったけど仕方ないわ。だってわたしもあんなお顔立ちだったら、もっと晴明さまに構ってもらえたもの。きっと他の誰よりも。だってそうでしょう? わたしが鬼女の中で、誰よりあのお方を分かっているんだから。晴明さまもきっと知ってらっしゃるわよ。一番自分のことを知っているのは誰かって。なのに」
わたしは俯き震え、もう彼女の顔を見られなかった。こんな経験は初めてで、どうなだめたらいいかも分からない。正直に言うと、彼女の気持ちを察したのかと問われたら、なかなか怪しい部分がある。
ただ分かっているのは、わたしは亜鐘姉さまが必死に保ってきたなにかを、愚かにも一晩かけて壊してしまったという事実。たぶんお手付きはないと安心していた後輩に順番を奪われて……。
「あの、亜鐘姉さま。晴明さまは、すぐにまたお成りになると仰っていました。次はきっと亜鐘姉さまと思います。どうかお願いです。お気を静めてください」
「無理よ」
亜鐘姉さまは庭に目を戻して続けた。声は、少し震えている気がした。
「たったいま、血穢が来たの。あの夜のお子も宿ってなかったし、次に順番を飛ばされるのは、わたしの方」
「亜鐘姉さま……」
「また、久しくときを待たないと。あの方が浮気なんかするから……」
※
どうしていいか分からなかった。
とにかく悪いことをしたのだ。亜鐘姉さまを裏切ってしまった。
そんなつもりじゃなかったけど、晴明さまから寵を頂いていたとき、彼女の立場という考え方が抜け落ちていたのは確かだ。
勘違いで殴ってゴメンとか、飯を横取りしてゴメンとか、そういうオイタなら夜盗時代に山ほど経験してなんとなく処し方も分かるけど、男女が絡む諍いはどうしたらいいか分からない。元のように、亜鐘姉さまと仲良くなりたいのに。
わたしは救いを求め、坤鬼舎の表に霞姉さまをお呼びした。仔細を報せるよう言われていたし、坤鬼舎の掟である彼女なら解決する方法を示してくれると思ったからだ。なのに……。
「放っておきなさい」
壊れた鳥居の陰で霞姉さまに報せると、彼女はそっけなく言った。
「どうしてですか? 霞姉さまも亜鐘姉さまが危ういと知ってらしたから、わたしに様子を見に行かせたんでしょう?」
「そうよ。亜鐘、私たちには上手く誤魔化すけど、夜火には少し地が出るみたいね。あなたが悪いわけじゃないから、気にしないこと」
「だけど……。亜鐘姉さまが……」
「悋気はご法度。その代わり順番を厳守。ここじゃ晴明さまと私たちはそういう関係なの。あなたが来たときから、いつ亜鐘の前に夜火へお鉢が回るか分からないって言ってあるから。可哀そうだけど、悪いのは割り切れなかった亜鐘の方」
霞姉さまは小さく息を吐き出す。このとき太陽が厚い雲に隠れて、わたしたちを影が覆った。
「晴明さまだって、亜鐘のことは危ういと思ってたと思うわ。だからいままであんたは見習いってテイで、順番を飛ばしてた。亜鐘とあんたが充分に打ち解けて、晴明さまがあんたの局に渡っても受け入れられるように」
「……そうだったんですか……」
「昨夜はもう、あんたも気持ちがだいぶ弱ってたし、結果的には穢悪を祓ったからね。直前にはなったけど、ちゃんと亜鐘や陸燈姉さまに私に先触れしてから、晴明さまはあんたの局に渡ったの。それなのに……」
次は大きなため息をつく霞姉さま。
知らないところでいろいろ気を遣ってもらってたようで申しわけないけど……。
「だけど、せめて次の順番をわたしと代わったり……」
「しきたりを私情で変えるのは、新しいもつれの元よ。たとえあの子がなにを求めていても……、それが外の常道だとしても、ここにはここの掟があるの。私たちはその中で生きているんだから」
坤鬼舎に来て、わたしも最初に説明を受けた。ここを平和に切り盛りするために、心得ておくべきいくつかのこと。
坤鬼舎の決定は晴明さまから独立している。
たとえ晴明さまや陸燈姉さまであっても、掟は勝手に変えられない。
目に余る私心、または坤鬼舎に相応しくない者は追放処分。
追放の判断は陸燈姉さまと霞姉さまで行う。
「この大変なときに、問題が山積ね。早く解決していかないと」
「大変?」
「都から漏れ続けてる怨よ。たぶんもうじき……、いまこの瞬間に穢悪になってもおかしくない怨だと思うわ。魚の穢悪の出現と共鳴してるのかもしれない。活動というか、気配が勢いづいている。晴明さまはいま、鬼門鎮護の加茂家と連絡を取り合ってるの。晴明さまの師匠筋ね」
「やっぱり……。そうなるんですね……」
わたしがこんな状態のときに……。
「とにかく亜鐘の件は」
霞姉さまは坤鬼舎を瞥見してから、こっちに目を戻す。
「晴明さまに報告しておいたから。あの子に関しては……。ちょっと他に問題もあってね、坤鬼舎だけじゃ定められないの。加茂家と晴明さまの話もあるし」
「他の問題? 賀茂家も関わる?」
「……そう。悋気よりも重大なこと」
「……そんな……。追放、にならないですよね?」
難しいことは分からない。窺うように問いかけると、霞姉さまは険しい表情をしてため息をつく。そのとき不意に木立で鳴きこめていたセミが、羽音を鳴らして別の場所へと飛び立った。
「……亜鐘の処罰は分からないわ。私にはなんとも言えない。だけどね、夜火。あんたは他人の心配している場合じゃないの」
「わたし?」
尋ねると、太陽が雲から顔を出す。突然の眩しさに細めた目から見えたのは、霞姉さまのとても悲しそうな面持ちだった。
「あんたいま、呪が使えないでしょ?」
※
知られていた。
やっぱり誤魔化し切れるものではない。
一昨日、自分を失い呪が勝手に大暴れをしてからこっち、どうも内なる力が体内に戻ってこない。そしてこれはわたし自身の体としての感覚だけど……。どうしたら戻せるのか、その方法もわからなかった。
「やっぱりねえ」
雅やかな薄紅の袿を重ね着た陸燈姉さまが、脇息にもたれている。
「ちょっと、調子が悪いだけなんです」
わたしは正座し、弁解するように口にした。
「たぶん魚の穢悪を調伏した疲れが残っていて……。だから少し休んだら、また元に戻ると思うんです」
「だといいけどねえ」
ふうと息をつく陸燈姉さま。わたしは刑の宣告を待つような心地で、自分の膝頭を見つめた。
「でも、夜火。正直に話しな。戻りそうにないんだろ?」
「あの、……分かんないです……」
「……坤鬼舎じゃあね、これまで二人、呪の力が戻らずにお役御免になった鬼女がいるんだよ。二人とも、いまのあんたと同じようになってた。だからね、誤魔化してもあたしには分かるんだよねえ」
陸燈姉さまは言外になにかを忍ばせて言った。
「ここは穢悪のたまり場だからね。呪を使えない鬼女には危険な場所さ。一人は片腕を失って、もう一人もひどい手負いになった」
「――わたしも、そうなると?」
「危険は大きいねえ。都からの怨もあるし」
いない方がお前のためだ。そう意味を解し、陸燈姉さまの次の言葉を待つ。手が汗で滲み、心臓が躍った。
「……隠岐にある小さな島にねえ、鬼女が暮らす集落があるのさ。世間からは隔てられた場所だけど。安倍家でお役御免になったり、呪を持っていない鬼女を世間から匿うための場所ってとこかねえ」
「そこに、わたしを?」
「このままだと、そうなるね。穢悪が頻繁に出てくるここよりも、あんたにとっちゃ安全だよ」
「わたしは、あの……、雑用でも、なんでも……。ここじゃなくても、モリの小屋でもいいから……。晴明さまと姉さまたちのお側に、どうか……」
涙を堪えながら訴える。
せっかく昨日は追放を免れたのに。晴明さまに愛してもらって、やっと自信が持てたのに。こんなのって……。
「三日あげるよ、夜火」
陸燈姉さまは脇息から起き、居ずまいを正した。
「三日、ですか?」
「そう、三日。分かってるだろうけど、それまでに呪の力を戻しなさいな。少しでも戻れば、見込みありって扱いで、あんたの処遇はこのままにしとこうか」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
6,779