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午前零時の市役所は、静かだった。
美沙はタクシーを降り、キャリーケースを引いて歩いた。
実家へ向かう途中だった。母には、遅くなるけれど今夜帰りたいと連絡してある。
母は詳しい事情を聞かず、ただ言った。
「鍵、開けておくから」
その一言だけで、美沙は泣きそうになった。
けれど、まだ泣かなかった。
涙を流すのは、すべて終わってからでいい。
市役所の正面玄関は、いつものように閉ざされている。
ガラスの向こうは暗い。受付カウンターも、番号札の機械も、昼間の顔を失って眠っている。
美沙は建物の右端へ回った。
午前零時。
細い明かりが、足元に落ちた。
地下へ続く階段が、そこにあった。
古びた案内板。
白い蛍光灯。
湿った紙とインクの匂い。
美沙はキャリーケースを階段の上に置いた。
これ以上、持っていく必要はない気がした。
バッグだけを抱え、階段を下りる。
一段。
二段。
三段。
下へ進むほど、外の世界の音が遠ざかっていく。
代わりに、紙をめくる音が聞こえた。
夜間受理窓口には、宮乃が座っていた。
黒い制服。
白い手袋。
赤い朱肉。
古びた受理印。
すべてが最初の夜と同じだった。
けれど、美沙だけが違っていた。
「お待ちしておりました。藤代美沙様」
宮乃は、静かに頭を下げた。
美沙は窓口の前に立った。
「最終受付に来ました」
「承知しました」
宮乃の声は変わらない。
でも、その言葉を聞いた瞬間、美沙の胸の奥で何かが小さく震えた。
最終受付。
あの夜、離婚届を出そうとして、受理できないと言われた。
ご主人の嘘が未提出です、と言われた。
そこから返送されてきたのは、航平の不倫だけではなかった。
義母の黙認。
共有口座の空白。
妻名義の借入申請。
前婚約者の未受理。
妻異常申告書。
そして、美沙自身の我慢届。
どれも見たくなかった。
でも、見た。
美沙はバッグから封筒を取り出した。
まず、離婚届。
次に、我慢届取り下げ申請書。
そして、妻異常申告の異議申立書。
三枚を窓口に置く。
宮乃は白い手袋で、それらを一枚ずつ受け取った。
「確認します」
紙をめくる音だけが、地下の廊下に響く。
美沙は窓口の赤い朱肉を見つめた。
最初の夜、その赤は怖かった。
何かを終わらせる血の色に見えた。
今は違う。
それは、美沙が自分の意思を紙の上に残すための色だった。
宮乃が顔を上げた。
「離婚届。本人提出」
「はい」
「我慢届取り下げ申請書。本人提出」
「はい」
「妻異常申告への異議申立書。証拠添付あり」
「はい」
宮乃はうなずいた。
「すべて、最終受付可能です」
美沙は深く息を吸った。
体のどこかがまだ震えている。
怖くないわけではない。
この印を押したあと、生活は変わる。
航平は怒るだろう。
義母は責めるだろう。
親戚は何か言うかもしれない。
お金の不安もある。
手続きも面倒だ。
明日から急に強い自分になれるわけではない。
それでも。
もう、戻らない。
宮乃は、赤い朱肉の蓋を開けた。
ふわりと、古いインクの匂いがした。
「最後の受理印は、ご自身で」
宮乃は受理印を美沙の前に置いた。
ずしりとした木製の印だった。
#不倫
#離婚
#ヒトコワ
手に取ると、思っていたより重い。
美沙は離婚届を見た。
そこには、藤代航平の名前と、自分の名前が並んでいる。
十二年。
その時間が、紙の上に載っているように見えた。
全部が嘘だったわけではない。
笑った日もあった。
楽しかった旅行もあった。
航平を好きだった自分も、確かにいた。
だからこそ、苦しかった。
でも、好きだった時間があることと、これ以上壊されないように離れることは、矛盾しない。
美沙は受理印を朱肉につけた。
赤が、印面に満ちる。
まず、離婚届へ。
ためらいは一瞬だけあった。
その一瞬の中で、航平の声がよぎる。
「お前にできるわけない」
「誰にも必要とされない」
「お前はおかしい」
美沙は目を閉じた。
そして、押した。
どん、と低い音がした。
受理
赤い二文字が、紙の上に浮かんだ。
美沙の胸から、長く細い息が漏れた。
続いて、我慢届取り下げ申請書。
こちらの紙には、これまで飲み込んできた言葉が見えない文字で重なっている気がした。
寂しい。
傷ついた。
怖い。
もう無理。
でも、妻だから。
美沙は印を握り直した。
「もう、保留にしません」
小さくつぶやき、印を押す。
受理
その瞬間、窓口の奥で、大量の紙が一斉に動いた。
棚が開く音。
引き出しが滑る音。
封筒が束になって落ちる音。
地下の奥の暗闇で、白い書類が鳥の群れのように舞い上がった。
航平の残業証明願。
家族維持申請書。
共有財産移動届。
妻名義借入申請書。
妻異常申告書。
前婚約者未受理記録。
それらが次々に封筒へ収まり、赤い印を押されていく。
返送済
差戻済
本人不同意
異議申立受理
宮乃は、淡々と処理していく。
書類は窓口の奥にある見えない郵便口へ吸い込まれていった。
美沙はそれを、ただ見ていた。
これは復讐ではない。
自分に押しつけられたものを、正しい宛先へ戻しているだけだ。
宮乃は最後に、妻異常申告への異議申立書を手に取った。
「こちらも、受理します」
宮乃が印を押す。
すると、書類の上に美沙が集めた記録が、赤い線で結ばれていった。
ホテルのレシート。
通帳。
ローン申込書。
里緒の証言。
航平のメッセージ。
録音記録。
前婚約者の未受理。
ひとつずつ、線がつながる。
美沙は初めて、自分の違和感が孤独ではなかったことを知った。
全部、つながっていた。
宮乃は書類を閉じた。
「以上で、夜間受理窓口における受付は完了です」
「完了……」
その言葉は、思ったより静かに胸に落ちた。
宮乃は、最後に一枚の小さな通知書を差し出した。
「こちらは控えです」
美沙は受け取った。
そこには、まだ何も書かれていない。
「今は白紙ですが、朝になれば読めるようになります」
最初の夜と同じ言い方だった。
けれど、怖くはなかった。
「宮乃さん」
「はい」
「この窓口は、また見えますか」
宮乃は、少しだけ間を置いた。
「必要がなければ、見えません」
「そうですか」
「ですが、あなたが提出できなかったものを、また抱え込まない限り」
美沙はその言葉を胸にしまった。
もう、ここへ来なくて済むように。
そのためには、誰かが嘘をつかない世界で生きるのではない。
自分の痛みを、自分でなかったことにしないことだ。
宮乃は静かに頭を下げた。
「藤代美沙様」
「はい」
「ご自身の人生を、お受け取りください」
蛍光灯が一度だけ点滅した。
目を開けると、美沙は市役所の外に立っていた。
地下への階段は、もうなかった。
東の空が、薄く明るくなっている。
キャリーケースは、階段があった場所のそばに置かれていた。
美沙はそれを引き寄せ、深く息を吸った。
朝の空気は冷たい。
けれど、胸の奥まで入ってくる。
その時、スマホが鳴った。
航平からだった。
出なかった。
すぐにメッセージが届く。
どういうことだ。
会社に変な書類が届いた。
お前、何をした。
続いて、義母からも着信が入る。
美沙は画面を伏せた。
もう、すぐに応答しなくていい。
すぐに謝らなくていい。
すぐに説明しなくていい。
必要なことは、記録の残る形で返す。
それだけでいい。
しばらくして、千尋からメッセージが来た。
航平さん側から動きがあったら、全部保存して。
今日、予定通り一緒に相談に行こう。
大丈夫。ここからは現実の手続きで進められる。
美沙は、短く返信した。
お願いします。
そのあと、母からのメッセージも届いた。
朝ごはん、温めておくね。
美沙は画面を見つめ、そこでようやく少し泣いた。
泣きながら、笑った。
航平の世界がどう崩れていくのかは、これから分かることだった。
会社に何が届いたのか。
義母が何を知ったのか。
里緒の証言がどこまで効くのか。
借入申請の件がどう処理されるのか。
すべては、これから現実の中で進んでいく。
ただ、美沙はもう、そこにひとりで立っていない。
記録がある。
味方がいる。
帰る場所がある。
そして何より、自分の名前を、自分で取り戻した。
市役所の建物を振り返る。
夜間受理窓口への階段はない。
ただの市役所だ。
昼になれば、人が来る。
住民票を取る人。
婚姻届を出す人。
離婚届を出す人。
誰かの生活の書類が、今日もここで処理される。
美沙はバッグの中に手を入れた。
宮乃から受け取った白紙の控えが、指先に触れる。
取り出すと、そこには文字が浮かんでいた。
藤代美沙様
その下に、赤い印。
受理済
さらに、本文が続く。
あなたの人生の返還申請は、受理されました。
以後、本人の意思確認なく提出された我慢届は、無効となります。
美沙は、その通知を胸に抱いた。
風が吹く。
夜明けの光が、白い紙の上に広がる。
美沙はキャリーケースを引き、歩き出した。
実家へ。
相談先へ。
これからの生活へ。
怖さは残っている。
でも、もうその怖さを理由に、自分を差し出したりしない。
私はようやく、私の名前で生きていく。