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最近、自分のことが分からない。
そう思うようになったのは、いつからだったか。
はっきりとは覚えていない。
ただ気づけば、
“自分の時間”が、ところどころ抜け落ちるようになっていた。
教室のドアの前で、一之瀬ソウヤは足を止めた。
理由はない。
ただ、すぐに開ける気になれなかっただけだ。
小さく息を吸う。
肺に入った空気が、妙に冷たく感じる。
(……入るか)
それだけを考えて、扉に手をかける。
ガラ、と音が鳴った。
数人の視線が、こちらに向く。
けれど、それも一瞬だけだった。
すぐに会話が再開される。
笑い声も、椅子の音も、普段と変わらない。
ソウヤは何も言わず、自分の席へ向かった。
椅子を引く。
座る。
机に手を置くと、
自分でも気づかないうちに、指先に力が入っていた。
(……まただ)
無意識の緊張。
理由は分からない。
何かがあるわけでもないのに、体だけが反応している。
ゆっくりと、指の力を抜いた。
黒板に視線を向ける。
授業は普通に進んでいる。
教師の声も、周囲の空気も、何も変わらない。
――なのに。
ほんのわずかに、現実感が薄い。
(ちゃんと見えてる……よな)
文字は読める。
声も聞こえる。
理解もできている。
ただ、“そこに触れている感覚”だけが弱い。
透明な膜が一枚、間にあるような。
その感覚に気づいた瞬間、
頭の奥に、軽い違和感が走った。
(……?)
痛みではない。
ノイズのような、小さな重なり。
意識の奥で、何かが触れた気がした。
そして――
――大丈夫。
一瞬だけ、思考に別の流れが混じる。
言葉として聞こえたわけじゃない。
ただ、“意味”だけが自然に浮かんだ。
(……今の)
ソウヤはわずかに眉をひそめる。
自分で考えたにしては、
妙に“外から来た感じ”があった。
だが、それも一瞬だった。
すぐにいつもの思考に戻る。
(……気のせいか)
そう結論づける。
それ以上考えても、答えは出ない。
視線を黒板に戻す。
ペンを持つ。
ノートを取る。
その動作は、普段通りのはずだった。
――そのはずだった。
ふっと、音が遠くなる。
黒板のチョークの音が、途切れる。
教師の声も、周囲のざわめきも、
急に現実感を失っていく。
(……あ)
気づいたときには、もう遅かった。
意識が、滑る。
何かに引かれるように、
静かに、抵抗なく――
途切れた。
「……っ」
視界が開く。
最初に見えたのは、空だった。
夕焼け。
赤く染まった空が、ゆっくりと広がっている。
まぶたを、ゆっくりと閉じて、開く。
(……どこだ)
体を起こす。
ベンチ。
木。
見覚えのある公園。
「……またか」
小さく呟く。
驚きは、もうほとんどなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面をつける。
時刻は、午後六時を少し過ぎている。
(……三時間くらいか)
教室にいたはずの時間から、
綺麗に抜け落ちている。
その間、自分が何をしていたのか。
思い出そうとしても、何も引っかからない。
ただ、空白だけがある。
(……まあ、いいか)
そう思う自分がいる。
最初に気づいたときほどの不安はない。
ただ、少しだけ気になる。
(……慣れてきてるな)
それがいいことなのかどうかは、分からない。
立ち上がる。
身体の調子は普通だ。
違和感もない。
ただ、“時間だけがない”。
風が吹いた。
木々が揺れ、葉が擦れる音が響く。
その中で、ふと足が止まる。
理由はない。
ただ、ほんの一瞬だけ――
(……ここで、何かしてた気がするな)
思い出せない。
でも、完全な空白とも違う。
“痕跡だけが残っている”ような感覚。
「……気のせいか」
軽く首を振る。
それ以上考えるのはやめた。
無理に掘り返す必要もない。
そうやって、日常に戻ればいい。
そう思った、そのとき。
頭の奥に、再び“重なり”が走った。
今度は、はっきりと。
――見つけた。
ソウヤの動きが止まる。
呼吸が、一瞬だけ途切れる。
(……誰だ)
声ではない。
けれど、意味は明確だった。
外からじゃない。
内側から、直接浮かんでくる。
――やっと、見つけた。
感情のない、静かな響き。
恐怖というより、理解できない違和感。
(……なんなんだよ)
問いかける。
だが、返答はない。
ただ、一つだけ――
――もう、始まっている。
それだけが残った。
次の瞬間、違和感は消える。
何もなかったかのように。
風の音だけが、戻ってくる。
ソウヤはしばらく動かなかった。
(……始まってるって、何が)
分からない。
ただ。
自分の知らないところで、
何かが進んでいる。
それだけは、はっきりしていた。
ソウヤはゆっくりと歩き出す。
その意味も、理由も分からないまま。