「月子……」
岩崎のか細い声が流れる。
いつもと異なる勢いのなさに、月子は、何事だろうと、恥ずかしさを圧し殺し、岩崎の腕の中で顔を上げた。
「……幸せになれるだろうか?」
「旦那様?」
やけに、寂しげな表情を浮かべた岩崎が月子を見ている。
「……マリーとは、彼女とは、幸せになれなかった。私が、マリーの覚悟など、東洋の島国に一人でやってきた彼女の思いなど、考えていなかったからだ。一緒になろうと、私の思いをマリーにぶつけていただけだった。彼女は、本当に、日本へ来るつもりがあったのだろうか。私の言葉に流されて、やって来たのではなかろうか……。私とマリーとは……、彼女との間に芽生えていたものは、おそらく、同情のようなものだったのだろう。誰にも相手にされない者通し、寂しさをまぎらわせていたんじゃないのかと、今なら、わかる。彼女は、私の身勝手さから、日本に来て、そして、いくらかの金を持たされ、追い返された。結局、それだけでは借金の返済にはおいつかず……最後は、病に侵されてしまい帰らぬ人になってしまった。私が、私がもっと、思慮深ければ……マリーは生きていただろう。今頃、誰かの側で笑って暮らしていたはずなのだ……」
岩崎は、思いの丈を吐き出した。
月子は、岩崎が、マリーを忘れられないのではなく、自責の念を抱いていたのではないかと、感じ取る。
マリーと幸せになりたかった、というよりも、マリーの幸せを奪ってしまったという、苦しみのような後悔を、戒めにしていたのではないのか。
だから、結婚はしないと言い、そして、今は、自分は幸せになれるのか、いや、月子を幸せにできるのかと、怯えているのではないのだろうか……。
色々な思いというよりも、考えが、月子の頭のなかを駆け抜けた。
岩崎の瞳は、心もとげに少し揺れ、それでも、ひしと月子に向けられている。
「……旦那様?私は、幸せです。こうして、お話を伺えて、幸せです」
月子が今感じている事だった。
岩崎は、包み隠さず、語ってくれた。だから、自分も正直になろうと月子は、口を開いた。
勇気が必要だった。しかし、月子は、岩崎に伝えたいと思ったのだ。
すると……。
「そうか。月子は、幸せなのか。それなら良かった……」
岩崎は、戸惑いながらも、笑顔を見せる。
「些細な事でもね、言葉にして、確かめたいんだ……。失敗、しないだろ?」
やっぱり……。
岩崎は、過去に囚われすぎている。
昔の恋を忘れられないのではなく、昔の事を悔いていたのだ。
月子の胸の内に、すっと、涼やかな風のようなものが流れ込んで来た。
それは、重くのし掛かっていた、岩崎への疑念を吹き払うものだった。
気がつけば、月子も岩崎へ、微笑んでいた。
「……月子」
岩崎が真顔で、何か言い淀み、
「い、いかん!駄目だ!!駄目だ!!」
と、いつも通り大きく声をはりあげる。
「こ、これ以上は、だ、駄目だ。駄目だぞ!!わ、私達は、まだ、見合いの途中みたいなものだ。正式に返事もしていない。いや!結納も、いやいや!祝言すら挙げていないのに!!こ、これ以上は、駄目なのだっっ!!」
「あ、あの……」
「月子!そんな目で、私を見るな!や、やめてくれっっ!!」
岩崎一人が、焦りきり、抱きしめていた月子を勢い良く離した。
はからずも、岩崎は、月子を突き飛ばしてしまう形になり、月子は畳の上に転がってしまう。
同時に、襖が勢い良く開いた。
「何やってんだよっ?!京さん!あんた!また、さかってんのかっ?!」
「やだっ!大声がすると思ったら、京介さんったら!月子さんを、折檻してっ!!月子さんが、何をしたっていうの!!」
「芳子。良くご覧?別に折檻、じゃないと思うよ?しかし、京介。月子さんを、朝っぱらから押し倒すのは、まずくないか?私達もいるのに」
岩崎の大声に、何事かと、二代目、男爵夫婦が、覗きに来た。
そして、口々に、好き勝手なことを言ってくれている。
「な、なんでもありません!私は、何もしていませんので!!」
岩崎は弁明するが、それを見て、男爵が、ニヤリと笑った。
「まあ、何でもないことはないと。ただ、それだけ、良く話し合えたということで、いいんだな?京介?」
男爵の言葉に、岩崎は顔をしかめ頷いた。
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