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「おはよう」
「ああ、おはよう」
午前7時。
寝室から起きてきた遥は、Tシャツに短パン姿。
キッチンに立つ萌夏もジャージの上下。
どこか部活の合宿のような色気のない姿であいさつを交わす2人。
萌夏が遥のマンションにやってきて一週間。
他人と暮らす生活にもだいぶ慣れた。
初めのうちこそ遠慮があったが、今では何も話さない沈黙の時間さえ気にならなくなった。
「お、今日の味噌汁は玉子が入っているんだな」
嬉しそうにお鍋を覗き込む遥。
「かき混ぜずに、ちゃんとポトンと落としたからね」
「サンキュー」
お坊ちゃんのくせにお味噌汁に落とした玉子が好きなんて、なんだかかわいい。
それもこだわりがあって、崩すのではなくポーチドエッグのようにそっと入れ、中に少し半熟部分が残るくらいの火の通りが好き。
他にも、梅干しはシソ梅派で甘いのはダメ。目玉焼きにはシンプルに塩コショウ。海苔は味付けのり。と好みはわりとうるさい。
「玉子焼きはないの?」
塩鮭ときんぴら、ほうれん草のソテーとソーセージが乗ったお皿を見て遥は不満そう。
「お味噌汁に入っているんだからいいでしょ」
玉子だってとりすぎはよくないし、栄養学を勉強している萌夏としてはバランスのいい食事を心がけたい。
「わかったから、明日は玉子焼き」
「はいはい」
文句を言いつつも二人でテーブルにつき、
「いただきます」
いつもの朝が始まる。
***
ブブブ。
テーブルの上に置かれていた遥の仕事用携帯が震えた。
ん?
こんな朝早くから、珍しい。
「もしもし」
朝食を食べる手を止めて電話に出た遥。
その声は心なしか不機嫌に聞こえる。
「ああ、ああ、何で?・・・わかった」
少し不満げに電話を切った。
「どうかしたの?トラブル?」
萌夏も気になって聞いてしまった。
本来なら仕事の話に口は出すべきではない。
でも、一緒に暮らしていれば気にはなる。
「秘書が来るって」
「ここへ?」
「ああ」
それはその、自分のボスが同棲を始めた女の顔を見に来るってこと?
そもそも、遥に秘書がいるって、萌夏は知らなかった。
「キレイな女の人だったり、する?」
すっぴんジャージ姿の自分を見返して、声が小さくなる。
「違うよ。男」
「ふーん」
萌夏の反応を見ておかしそうに笑った後、再び食事を再開させる遥。
萌夏はこのままここにいるべきなのか、着替えてきた方がいいのか、それとも部屋に入っていた方がいいのか、考えてしまった。
同棲とは言え居候だし、特別な感情があるわけでもなく、要は部屋を貸してもらっただけ。
であるなら、これ以上遥のプライベートにかかわるべきでない気もする。
「いいから食べろよ。今から来るのは遠慮するような奴じゃない」
「そんなこと言ったって・・・」
すっかり手の止まってしまった萌夏。
ちょうどその時、
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
***
遥がカギを開け、玄関が開くと近づいてくる足音。
バタン。
リビングのドアが開いて入ってきた男性。
「おはよう」
キッチンから声だけかける遥。
「おはよう、ございます」
チラッと萌夏を見て視線を外した男性は、遥に向かって近づく。
うわ、イケメン。
背が高くて、でもがっちりとした体。
キレイに上げられた髪と細いフレームの眼鏡。
予想していた秘書像よりはずいぶん若そうだけれど、キリッとした顔立ち。
遥だって二枚目に違いはないが、この人とはタイプが違う。
「朝一で副社長が打ち合わせをしたいとのことですので、少し早めに出ることができますか?」
「え?」
「先日の件について詰めたいようです」
「ふーん」
返事はしたものの、納得できない様子で遥が男性を見る。
萌夏はそのまま食事を続けるわけにもいかず、食べかけだった食事をかたずけ始めた。
「いいから、お前は食べていろ」
遥は残ったご飯とお味噌汁をかき込むと、席を立ち自分の部屋に向かって行った。
***
「いい生活ですね」
え?
聞こえてきた言葉が空耳に思え、萌夏は顔を上げた。
「家賃も光熱費もなしでここに住めればいいじゃないですか」
「・・・」
確かにそうだけれど。
「普通は断りますよね?」
「そう、ですね」
「何が目的ですか?」
「別に・・・」
この時、萌夏ははっきりわかった。
この人、萌夏が嫌いなんだ。
だって、今この人の背後から感じる気配は暗黒。
怒りと憎しみが混じったもの。
「仕事が見つかって住むところが決まれば出ていくんですよね?」
「ええ」
萌夏だって無駄に長いをするつもりはない。
次の生活が決まればすぐにでもここから出ていく。
「何なら仕事を紹介しましょうか?」
どうやら早くここから出て行けと言われているらしい。
「ご心配は無用です。住む所が決まればすぐにでも出て行きます」
「それはよかった。よろしくお願いします」
この威圧的な態度と言葉。
萌夏にとっては最悪の男だが、すべては遥を守るためのものに思えた。
秘書としてはきっと優秀なんだろう。
***
「お待たせ」
遥が戻ってきた。
「じゃあ行きましょう」
先ほどまでの毒を孕んだ物ではなく、穏やかな声。
これが本来の姿なんだろうか。
いや、萌夏に見せた姿こそが本性かも。
どちらにしてもこの人には用心したほうがよさそうだ。
最初から深く関わっていくつもりはないけれど、敵は少ないほうがいい。
「帰りはあまり遅くならないと思うから」
スーツを着てカバンを持ち、萌夏に声をかける遥。
「うん」
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
まるで家族みたいな会話をして、玄関に向かう遥の数歩後ろを秘書の男性も続く。
結局名前も聞きそびれた。
それどころか、まともに挨拶もしていない。
まあ、あれだけ嫌われれば挨拶どころではないけれど。
さあ、気を取り直してバイトを探そう。
そしてできるだけ早くここを出なくては。
残っていた朝食をかきこみ、萌夏は外出の支度を始めた。
***
居候中の萌夏にとってやることと言えば掃除洗濯と食事の用意。
それさえしていれば、住む所も食べる物も苦労はしない。
遥の厚意に甘えれば、短い時間のバイトをしながら大学に通うこともできる。
でも、萌夏にはそんな生活を送ることは考えられなかった。
ベーカリーでのバイトを辞め遥のマンションに居候を決めてから、萌夏は大学に休学届を出した。
まずはバイトと一人で住む所を探し、引っ越しをして、一年くらい必死に働いてお金を貯め、それからもう一度大学に行こうと決めた。
それがけじめに思えた。
「条件のいいバイトって、なかなか無いのよね」
駅前のコーヒーショップで求人サイトの検索。
毎日いくつか目星をつけて電話をしてみるけれど、なかなかいい返事がもらえない。
理由はわかっている。萌夏には住所がないからだ。
住所不定ではバイトだってなかなか見つからない。
だからと言って遥の住むタワーマンションの住所を書けば、余計に怪しい人だし。
「贅沢言ってないで、夜のバイトも探そうかしら」
昼間に比べれば夜の方がお金がいいし、審査だって厳しくはない。
さすがに水商売って言うと抵抗があるけれど、皿洗いくらいならできると思うし。
「よしっ」
自分に気合を入れ萌夏は夜のバイトを探し始めた。
***
「さあ、どうぞ座って」
「はい」
今までなら面接にたどり着くだけでもずいぶん苦労したのに、電話一本でその日のうちの面接。
普段着のまま来た萌夏に表情を崩すこともなく、対応してくれる。
「接客業は初めてなの?」
「え、ええ」
ここは繁華街にあるクラブ。
時給3000円で裏方のバイトが出ていて連絡を取った。
きっと皿洗いくらいだろうと思ったし、人前に出ることもないと高をくくっていた。
「せっかくだからお店に出てみない?」
「はあ?」
ママらしき女性の言葉に、萌夏が声を上げる。
それは話が違う。
さすがにホステスをするつもりはないし、この性格が向いているとは思えない。
「裏方のバイト求人を見て伺ったんですが?」
きっぱりと断ろうとする萌夏に、
「裏方の3倍は稼げるわよ。週6のバイトと同じお金が週2で稼げるのよ?」
ウッ。
痛いところをついてくれる。
「悪いことは言わないから、一度体験のつもりでやってみなさい。それでも嫌なら皿洗いでも何でもやらせてあげるから」
「でも・・・」
即答できない萌夏。
しかし相手は一枚も二枚も上手で、
「とりあえず明日いらっしゃい。ドレスもみんな用意しておくから。ねぇ?」
「はあぁ」
こうなれば、萌夏にかなうはずもない。
押し切られる形で約束をし、萌夏のバイトが決まってしまった。
***
水商売なんてという思いが萌夏の中になかったと言えば嘘になる。
キレイに着飾ってお酒を注ぐだけ。そんな認識しかなかった。
しかし、それが間違いだったとすぐに気づいた。
「あちらのお客さんはゆっくりとお酒を楽しみたくていらしているの。だからペースに合わせてお酒をすすめて、お話を聞いて差し上げてね」
「はい」
ホステスさんたちはみんなお客さんの好みを熟知していてそれぞれに合った接客をする。
無駄にお酒をすすめようとはしないし、時には楽しく盛り上げ、時にはじっくりと話を聞く。
本当にプロなんだと痛感した。
「吹雪ちゃんお願いします」
「はい」
お店では吹雪と名乗った。
本名が萌夏だからその反対の名前にしてみた。
はじめこそホステスなんて絶対に嫌だと思っていたけれど、ママやお店の先輩たちを見て気持ちが変わった。
それに、週2日のバイトで今まで以上の収入になるなら悪くはない。
遥にはコンビニのバイトだと嘘をついたけれど、気づかれなければ大丈夫。
空いた昼間の時間にも週3でカフェのバイトを入れ、この調子なら来年には大学に戻れると萌夏は浮かれていた。