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「おはよう」
「おはよう」
同居を始めて1か月。
朝食と週に何度か一緒に夕食をとる生活が、当たり前になりつつある。
この生活に慣れてはいけないと思いながら、その快適さに萌夏は危機感を感じていた。
「あれ、今日はパン?」
「うん。ダメ?」
「いや」
少しだけ不満そうな遥。
お坊ちゃまは和食の朝食がお好み。
わかってはいるんだけれど・・・
「昨日遅かったのか?」
「う、うん」
昨日のバイトはとても忙しくて帰ってきたのが午前3時を回っていた。
さすがに今朝は起きられなくて、パンと卵とサラダだけの朝食になってしまった。
「バイト先って、どの辺?」
いきなり言われて固まる萌夏。
後ろめたい思いがある分、挙動不審にならないように口数も減ってしまう。
「タクシーで帰っているんだろう?」
「うん、まぁ」
「それってバイトの意味がある?」
さすが、痛いところついてくる。
確かにコンビニでバイトをしていて帰りにタクシーを使ったんでは何も残らない。
でも、実際には違うわけで・・・
萌夏のバイトをコンビニだと思っている遥。
それでも心配してくれるのに、もしクラブでホステスをしているって知ったらどうなるだろう。
萌夏は急に不安になった。
「夜のバイト、辞めれば?」
「え?」
「昼も夜も働いたんじゃいつか体を壊すぞ」
同い年のくせに説教口調。
「うん。でも・・・アパートの頭金がたまったら昼のバイトだけにするつもりだから」
それまでは頑張りたい。
「ふーん」
視線を逸らしパンを頬張る遥の横顔はちょっとだけ不機嫌そうだった。
***
「おはようございます」
いつものように雪丸さんの登場。
最近では遥からもらったスペアキーでいきなり部屋に入ってくる秘書。
別に悪いことをしているわけではないからいいんだけれど、プライバシーも何もあったものじゃない。
ただ、遥自身は学生時代からの友人である雪丸さんの存在をまったく気にしていないようで、萌夏としては文句を言わず迎え入れている。
「随分シンプルな朝食ですね」
テーブルの上をチラッと見て、一言。
「すみません」
つい口をとがらせてしまった。
手抜きな朝食なのは自覚がある。
でも、今日はどうしても起きられなかったから。
「たまにはいいさ」
珍しく、遥がかばってくれる。
「何がそんなに忙しんだか」
これは遥が部屋に戻った瞬間、萌夏にだけ聞こえるボリュームでつぶやかれた言葉。
それに対して萌夏は、ただ睨みつけることしかできない。
同居を始めて1か月。
ここでの生活にもバイトにも慣れた。
遥のことだって機嫌をとる方法がなんとなくわかってきて、それなりにうまくやっている。
でも、この秘書だけはダメ。
完全に嫌われてしまっていて打つ手がない。
「じゃあ行ってくるよ」
「行ってらっしゃい、気を付けて」
いつものように声をかけ玄関へと向かう遥と、その後ろをついていく雪丸さん。
結局今日もまともに挨拶すらしてもらえなかったなあと、萌夏は肩を落とした。
***
毎週水金の夜7時から12時までがバイトの時間。
忙しい日には残業になることもあるけれど、大抵1時過ぎにはお店を出る。
「では、今日も一日よろしくお願いします」
開店前の簡単なミーティングの後仕事の開始。
「吹雪ちゃんお願いします」
「はい」
不思議なことに、最近では萌夏にも指名が入るようになった。
積極的に営業をするわけでもないし話が上手でもないのに、中年のおじ様たちには割と人気がある。
社会経験がないからこそ何を聞いても「へぇー」と素直に反応し「うんうん」と頷く萌夏が、いい話し相手になるらしい。
「こんばんわ」
「やあ、吹雪」
今日も大手企業の部長さんだというお客さんのテーブルに呼ばれた。
人事部長だというお客さんは、会社や家では言えない愚痴を時々話にやってくる。
萌夏はそれを黙って聞いてあげる。
そういうお客さんが苦手だという先輩も多いけれど、萌夏は気にならない。
それはきっと、子供の頃から父さんのもとに愚痴や相談事をしに来る檀家さんを見てきたから。
父さんはそれを聞き、時にはアドバイスをしたり、もめごとの仲裁に入ることもあった。
それも仕事のうちだと父さんは言っていた。
「ったく、やってられないよなあ」
人事部長と言う立場上、上と下に挟まれ憎まれ役になることが多いと文句を言うお客さん。
「大変ですね」
時々お酒を足しながら、萌夏が相槌を打つ。
そうしているだけで、ストレス解消になるらしい。
***
「吹雪はいい子だな。うちの娘も吹雪ぐらい可愛げがあればいいのに」
かなりお酒の入ったお客さんは、萌夏と同じ年頃だという娘さんのことも愚痴りだす。
「そんなことありませんよ」
仕事だから、お客さんだから言えることで、家族ではそうもいかない。
萌夏だって、家では素直でかわいい態度ばかり取っているわけではない。
「なあ、この後飲みに行こうか?」
「え?」
お客さんからのアフターのお誘い。
本当なら行くべきなんだろうけれど、
「吹雪になら何でもご馳走してやるぞ」
「いや、でも・・・」
「駄目なのか?」
「すみません」
バイトを始めるとき、お店の外でのお付き合いはすべてお断りするとママと約束した。
いつ辞めるかわからないアルバイトである以上それがけじめに思えたし、何よりもどこかで知り合いに会うことが怖かった。
「仕方ないなあ、また来るよ」
席を立ってしまったお客さん。
「すみません」
萌夏は頭を下げ、店の外まで送りに出た。
***
「また来るよ」
「ありがとうございました」
ママと並んでタクシーに乗り込むお客さんをお見送り。
都内の繁華街、それも高級店の並ぶ地域だけあって周囲にはスーツを着たビジネスマンと黒塗りの車がひしめき合っている。
タクシーが見えなくなるまで見送りながら、萌夏はこの場にいる自分が場違いな気がして仕方がない。
「すっかりお気に入りね」
え?
「部長さんよ。吹雪ちゃんがかわいくて仕方ないようじゃないの」
「そんなこと」
「あなた、この仕事向いているのかもね」
「そうでしょうか?」
自分ではそうは思えないけれど。
「急がなくてもいいから、一度本気で考えてみなさい」
「はい」
ダークカラーのスーツを着た男性たちと、きれいな色のドレスや着物を着た女性。
にぎやかで、華やかな街。
ここに居場所を見つけることなんて、できるんだろうか。
あっ。
考え事をしながら周囲を見回していた萌夏は、目の前に止まった車の中の人物と目が合った。
嘘。
それは萌夏のよく知る人物。
毎朝会っている人。
そして、絶対にこのバイトを知られたくない人。
クルリと方向転換し、店の中に逃げ込む萌夏。
マズイ、絶対にマズイ。
あの人は・・・
***
バイトを終え、マンションに向かう萌夏。
いつもより飲みすぎてしまって、酔い覚ましのつもりで少し手前でタクシーを降りた。
「どうしよう」
誰に言うともなくつぶやいた言葉。
あの時、間違いなく雪丸さんと目が合った。
隣に座っていた遥は電話中で萌夏を見ていなかったけれど、雪丸さんは気づいたはず。
はあぁー。
大きなため息が出てしまった。
雪丸さんのことだから、遥に言わないはずがない。
そして、遥はきっと怒るだろう。
「そんな女は置いておけない」と言われて、マンションを追い出されるに違いない。
あんなに親切にしてもらったのに、嘘をつき遥をだましていた萌夏を許してくれる訳がない。
「困ったなあ」
重い足を引きずりながら、いつもより少し遅い時間にマンションへとたどり着いた萌夏。
このまま逃げ出したい気持ちを抑えて、マンションのドアを開けた。
***
「え?」
玄関を開け、足音を立てないようにそっと廊下を進み、開けたリビングのドア。
いつもなら真っ暗なはずのリビングに、なぜか電気がついていた。
「おかえり」
「ただ、いま」
ソファーに座った状態で声をかけられ、萌夏は固まってしまった。
「ずいぶん遅いね」
「うん」
時刻は午前2時。
いつもより1時間ほど遅い。
「いつもこんなに遅いの?」
「いや、まあ」
いつもは遥が眠った後に帰るから、こうやって顔を合わせることもなかった。
「どうしたの?こんな時間に起きてるなんて」
すでにパジャマ姿の遥が起きていることが不思議に思えて、話の矛先を変えてみる。
「雪丸が、急ぎでもない用事で電話してくるから目が覚めたんだ」
「へえー」
それはきっと、わざとだよね。
この時間に帰る萌夏と遥を鉢合わせさせようとしたんだ。
「ずいぶんきれいに化粧するんだな」
「え?」
「普段はほとんど化粧をしないだろ?」
「うん、まあ」
「それに、酒・・・飲んでる?」
「ぅうん」
遥は萌夏を睨んだまま、口を閉じてしまった。
もー、ダメ。
完全にばれている。
***
遥の秘書は、最も効果的な方法で萌夏の秘密をばらしてくれた。
自分の手は汚さず遥かに現実を突きつけ、萌夏の口から言わなければならない状況を作った。
「で?」
立ったまま黙っていた萌夏に、遥が説明を求める。
一瞬、このまま嘘をついてごまかそうかと萌夏は考えた。
それで遥との暮らしが守れるならそれでもいいと思えた。
でも、きっとすぐにばれるだろう。
あの秘書が黙っているはずがないんだから。
どっちにしたって、ここでの暮らしは終わりを迎える。
それなら、自分から話そう。
「本当はコンビニのバイトではなくて、クラブでホステスをしていました」
さすがに遥の顔を見る勇気はなくて、床を見ながら告白した。
「何で嘘をついた?」
「それは」
本当のことを言えば反対したでしょう?とは言えない。
「そんなに金が必要なのか?」
住む所も食べるものもすべて出してもらって、これ以上何が欲しいんだと言われている気がした。
「ごめんなさい。でも、早くお金を貯めて大学に戻りたいんです」
「大学に戻るって、お前・・・」
そもそも休学したことを知らせていなかった遥は驚いた様子で立ち上がり、うつむいていた萌夏の顎に手を当て顔を上げさせた。
「ちゃんと、目を見て話せ」
***
あと一年で卒業できる大学をなんでわざわざ休学するんだと叱られた。
一緒に暮らしていながら嘘をついてホステスのバイトをしていたことも、怒っていた。
「ごめんなさい」
他に言葉がなく、口にした瞬間涙があふれてしまった。
「反省しているんだな?」
「はい」
遥に嘘をつきだましてしまったことに申し訳ない思いでいっぱい。
「じゃあ、すぐにを辞めろ」
え?
「それは・・・」
「嫌なのか?」
だって、バイトを辞めれば収入を失う訳で、次に住むアパートを見つけることもできなくなる。
「俺は、ホステスのバイトなんて許す気はないぞ」
「でも・・・」
「店を教えてくれ。俺が連絡するから」
「いや、ちょっと待って」
遥の気持ちは理解する。
怒るのも当然だと思うし、それだけのことをしたんだという自覚もある。
でも、
「金を貯めたいんなら俺が紹介してやる。だから今すぐに夜のバイトはやめろ」
ん?
「いいな?」
えっと、その・・・
「もしかして、このままここに置いてくれるの?」
「ああ」
嘘。
てっきり「出て行け」って言われると思っていた。
「本当に、いいの?」
「しつこいっ」
なぜだろう、萌夏は涙が止まらなかった。
この涙は、住む所を失うことがなかったことへのホッとした涙。
特別な感情なんてあるはずはないのに・・・
「ありがとう」
「バカ、俺は怒っているんだ」
「うん」
でも、ありがとう。
***
結局遥の説教はその後も続き、寝不足のまま朝を迎えることになった。
「おはようございます」
勝手に入ってきた秘書の雪丸さん。
「ああ、おはよう」
遥も目をこすりながら、あくびを嚙み殺す。
「眠そうですね」
「ああ」
何か言いたそうに、遥は雪丸さんを見ている。
萌夏は気づかないふりをして朝食の用意をする。
ああ見えて、遥の洞察力はすごい。
きっと雪丸さんの思惑にも気が付いているはず。
「お前も一緒に食うか?」
今日の朝食はすいとん。
萌夏のおばあちゃんが作っていたおふくろの味。
大鍋で作ったからたくさんあるんだけれど、
「いえ、私は結構です」
「いいから食って行け。旨いんだぞ」
萌夏に食事の追加を指示し、急ぐ風もなくすいとんを食べる遥。
立ったままその様子を見ていた雪丸さんは、遥の態度からすべてを悟ったように、
「何かお手伝いすることがありますか?」
初めて萌夏に向かって話しかけた。
「いえ」
お鍋のすいとんをよそうのに、手伝いなんて必要はない。
「それから、萌夏は今のバイトを辞めさせて昼間の仕事をさせるから、手配を頼む」
「え?」
遥の言葉に萌夏の方が反応してしまった。
「昼間の仕事ですか?」
「ああ」
きっと不満はあるだろうに、反対しない秘書の鏡。
機嫌が悪そうな遥と、黒い空気をまとった雪丸さん。
2人を交互に見ながら、とんでもない人につかまってしまったのかもしれないと萌夏は不安になった。
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