「あ、あの⋯⋯アライン様、櫻塚様⋯⋯」
控えめな声が
突然、二人の真上から降ってきた。
視線を上げると、孤児院の二階
石造りの窓枠から
ひょこりと顔を覗かせていたのは
一人のメイドだった。
純白のヘッドドレスに濃紺のワンピース
黒の先から深紫へと変わる波打つ髪。
清楚な微笑みが浮かぶその顔立ちは
やや緊張に染まりながらも、整っていた。
「お菓子作り教室の準備が⋯⋯整いました。
いかがなさいますか……?」
声に戸惑いが混じるのは
目下の二人がいささか尋常ではない雰囲気で
揉めていたからだろう。
だが、その瞬間だった。
「──っ!?アリア様!?
あ、危険ですわっ!!」
そのメイドの身体が、不意に
〝ぐいっ〟と後ろに引かれた。
アリアだった。
金糸の髪を風に靡かせ
窓から上半身を乗り出していた。
その深紅の瞳は何かを捉えるように
真下の時也をじっと見据えている。
「アリア様っ、お願いですから⋯⋯!
ああっ、危な──」
だが、既に遅かった。
メイドの身体が
アリアを必死に引き戻そうとしたその拍子に
重心が揺らぐ。
――ズルッ!
足元のレースが窓枠を滑り
二人の身体が〝ぐらり〟と宙に傾いた。
「危ないっっっ!」
咄嗟に下にいた二人が腕を広げた。
時也はアリアを、アラインはメイドを
それぞれ正確に受け止める。
ドスン──!
「ちょっとアリア!?
キミ、何やってんの!!
この夫婦は、揃いも揃って
お互いしか見てないんだから!!」
呆れたような怒声を吐きながら
アラインは腕の中のメイドに視線を落とした
「キミも大丈夫!?どこか痛めてない?」
やさしい声音でそう尋ねたその時だった。
〝きゃああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!!!〟
〝美しいっっっ!!麗しいっっっっ!!!
アライン様、尊いぃぃぃッッ!!!!!〟
それはもう声ではなかった。
だが、雷鳴のように
否、魂そのものが炸裂したかのような
絶叫と賛美の声が、時也の脳内に突き刺さる
「⋯⋯っ、う、ぐぅ⋯⋯っ!」
よろめいた時也は
アリアを庇うように抱き寄せ
膝から崩れ落ちた。
そのまま石畳の上に尻もちをつきながらも
強く両腕にアリアを包み込む。
「アリア⋯⋯さん⋯⋯ご無事、ですか?」
掠れた声でそう囁いた時也の胸に
アリアはそっと腕を回す。
何も言わず、ただ静かに
その額を時也の胸元へと預けてきた。
柔らかな金の髪が、彼の胸元で風に揺れ
かすかに香る桜と混ざって
春のような温もりを滲ませる。
──次の瞬間。
〝あああああああああああああああああああああッッッ!!!〟
〝なんて尊いの!?芸術!?絵画!?
いや、これはもはや神話ッッ!!!〟
〝う、うっわああああああああんッ!!!!
尊さが暴力、破壊力の暴走ッッ!!!!
天上天下唯一無二ぃぃぃ!!!!!!!〟
またしても
魂が震えるような悲鳴が、脳を殴打する。
脳髄が沸騰しそうな熱。
心拍が一瞬止まりかけるほどの重い衝撃。
時也は
必死に呼吸を整えながらも、確信した。
(このメイド⋯⋯
この子が、叫びの主ですか⋯⋯!)
一見、冷静で整った物腰。
柔らかな微笑み。
しかし、その内側に渦巻いているものは
火山の如く煮え滾る〝賛美の業火〟
まるで全てを神聖な光に染め上げんとする
〝推しの加護〟
そして、次の瞬間だった。
ひと吹き
砂塵を巻き込みながら風が吹いた。
アリアの深紅の瞳がかすかに瞬き
黄金色の睫毛の影が揺れる。
「⋯⋯っ」
小さく、彼女が目の痛みに瞬きをした瞬間。
ぽろり、と。
アリアの瞳から一粒の涙が零れ
頬を滑って──
石畳の上に〝コトリ〟と落ちた。
その滴は、瞬く間に透明な宝石へと変わり
朝の陽光を受けて、七色に輝く。
時也も、アラインも、一切の動きを止めた。
ただ、その奇跡の瞬間に
固唾を呑むように硬直していた。
(まさか⋯⋯今ので⋯⋯
アラインさんに〝加護〟が付与され
アリアさんが〝涙〟を⋯⋯!?)
混乱と確信がせめぎ合う中
石畳の上には、静かに輝く
〝神の遺贈〟だけが残されていた。
アラインの動きは
まるで優雅な舞のようだった。
腕の中に抱えたメイドの身体を
片手でしっかりと支えたまま
もう片方の手がひゅっと伸びる。
滑らかに、迷いなく
石畳の上で煌めく一粒の宝石を
その指先で摘まみ取った。
まるで運命に導かれたように
アラインの手の中に収まる。
光を透かすその宝石は
卵型に整った完璧なフォルム。
内側に浮かぶ虹彩模様は
まるで神秘の絵画のようで
息を呑むほどに美しかった。
アラインはそれを
手の中で慎重に転がしながら
瞳を細めて、細部を舐めるように観察した。
「⋯⋯ねぇ、時也」
振り返ったその顔には
いつもの飄々とした微笑みはなかった。
感情の入り混じる瞳。
軽薄さと真剣さの狭間で揺れる声音。
「これなら
キミの為に流されたものじゃなく
偶然にも流れた産物だから⋯⋯
ボクが貰っていいよね?ね!?」
一歩、時也の方へ踏み出しながら
指先の宝石を高く掲げて見せる。
「純度も良く、形も良い⋯⋯
インクルージョンもゼロ⋯⋯
これはね、時也」
その声はやがて
確信に満ちた経営者のものへと変わった。
「今の為替相場と、宝石市場の流動性
そして〝不死の魔女の涙〟という出所の
〝神話的希少価値〟──
正直、桁が常識じゃ測れない。
実際、これをオークションに出せば⋯⋯
ヘッジファンドが動く。
サンクチュアリ系の資金でも動く」
指先で宝石を軽く揺らしながら
アラインは目を細める。
「非課税財団名義で匿名出品しても
恐らく評価額は〝最低〟で一億──
いや、それは過小評価。
交渉次第で三億を超えることも
充分にあり得る。
ボクの知る宝石鑑定士がこの場にいたら
震えて座り込むよ。
美術品として
王族レベルのコレクターが群がるレベル」
その口調は熱を帯びていた。
いや、もはや一種の〝敬意〟に似ていた。
「これひとつで
ここの子供たちが三倍に増えても──
衣食住、医療、教育
そして将来の独立資金まで
十年は〝確実に〟養える。
貯蓄型保険と信託資産を組み合わせれば
三世代先まで福祉を循環させられる」
そう言い切るその声に
どこか切実さが滲んだ。
「⋯⋯だから、これは〝偶然〟だから。
きっと、神様の⋯⋯
いや、アリアの気紛れで落ちた恩寵だから。
だから、ボクが持っていてもいいよね?
ね、時也?」
アラインの瞳は
子供のように輝いていた。
だがその奥底では
慈善家としての冷徹な計算と
何よりも強烈な欲望──
〝信仰の証〟とも言えるこの宝石を
決して離すまいとする執念が
静かに燃えていた。
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