アラインの熱に押され
時也は一歩だけ後ずさった。
息を吸い込み、鳶色の瞳を瞬かせると
少しだけ困ったような微笑みを浮かべる。
「わ、わかりました⋯⋯。
そちらは、子供たちのために
お譲りしますので⋯⋯」
袖口を整え直しながら
ふと隣に目を向ける。
まだ腕の中に抱かれている
あの深紫の髪のメイドに向けて
静かに声を紡いだ。
「メイドの彼女と⋯⋯
お話させて頂けますか?」
その一言に、彼女はビクリと肩を震わせた。
「え?あ、わ、わたくし⋯⋯ですか!?」
まるで
突然舞踏会に呼ばれた町娘のように。
突然〝王子〟から名指しされた
その瞬間のように。
その顔は戸惑いと驚愕
そして歓喜がないまぜになった
可憐な陶器のような表情だった。
だが──
〝ひゃあああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!〟
〝わたくしが!?櫻塚様と⋯⋯
お話を!?!?!?!?!?!?!?!?〟
表面はごく静かなまま
彼女の心の内は、咆哮の嵐だった。
爆発的な熱量が、時也の脳内を突き抜ける。
(お、おぉぉ⋯⋯この子は本当に⋯⋯
なかなか、凄まじい感情量を⋯⋯っ)
時也は思わずこめかみを押さえかけたが
無理やり微笑みを崩さず
ゆっくりと歩み寄る。
そのまま、優しく会釈すると
胸元に手を添えて──
「えぇ、妻を⋯⋯
アリアさんが落ちようとするのを
止めてくださり⋯⋯
先ずは、ありがとうございます。
貴女の、おかげで⋯⋯助かり、ました⋯⋯」
その声は、あくまで穏やかに
丁寧に紡がれたものだった。
だが──
〝“感謝”された!?〟
〝この私が!?〟
〝アリア様の旦那様から直々にっ!?〟
〝きゃああああああああああああああああああッッッッッ!!!!〟
〝脳がっっ!!
笑顔に脳が蕩けますわっ!!!!!〟
〝推しカプの旦那様が
私に〝感謝〟を⋯⋯だなんて⋯⋯っ〟
〝ああっ⋯⋯今死んでも⋯⋯悔いは⋯⋯
悔いは、ありませぇぇぇぇぇぇんッッ!!〟
その叫びは
まるで魂そのものが
熱狂の渦に焼かれているかのようだった。
笑顔のまま
その全てを聞いてしまった時也は
微かに震える唇を指先で押さえ──
(このままでは
こちらの精神が
焼き切れてしまいそうですね⋯⋯)
そう思わずにはいられなかった。
時也は
彼女の心の中に噴き上がる狂騒の叫びを前に
苦笑交じりに肩を揺らした。
その深紫の髪のメイドは
微動だにせず
控え目な姿勢を保ってはいたが──
内面は明らかに
激情の火柱そのものであった。
時也は柔らかく
空気を震わせないような声で口を開いた。
「⋯⋯あの⋯⋯ですね。
大変、驚かれるかと思いますが⋯⋯」
顔を上げる。
鳶色の瞳が、静かに彼女を見つめる。
その目は、糾弾でも畏れでもなく
ただただ〝理解〟を求めるものだった。
「僕には⋯⋯
人の心を、読めてしまうのです。
生まれつきのものでして⋯⋯
その⋯⋯申し訳ないのですが⋯⋯
少しだけ、お心内の熱量を
下げていただけると、助かります⋯⋯」
言葉はとても優しく
相手を否定しない響きで包まれていた。
まるで、寒夜に灯された蝋燭のような
慎ましいぬくもり。
だが──
〝────っっっ!!!!〟
その瞬間。
彼女の心が
目に見えるほどの赤熱を帯びて炸裂した。
〝あああああああああッッッ!!!!〟
〝ということは⋯⋯いま!
いま、わたくし⋯⋯櫻塚様に、心を⋯⋯
心を知られてッッ!?!?!?!?〟
〝まさかの羞恥のフルオープン!?!?〟
〝ななななななななにを思っていたか
全部!!?うそっっ、死ぬっっ!!!
恥ずかしい死因のナンバー1ですわ!!〟
〝待って!?この羞恥、暴力!?
羞恥の洪水ッ!?羞恥の津波!!??〟
〝しっ⋯⋯死ぬっっ!!
あ、あああ、羞恥で溺れ死にますわ!!!〟
彼女の心は
羞恥の奔流で完全に制御不能となっていた。
理性という堤防が決壊し
魂の叫びが天を衝くように突き上げる。
頬はみるみる赤く染まり
唇はわななき
手はエプロンの裾をぎゅっと握り締めていた
時也は──
無言でその場に立ち尽くし
表面は微笑みを保ちつつ
心中で叫んでいた。
(しまっ⋯⋯これ、逆効果でしたか!?
むしろ火に油でしょうかっ!?)
眉間を押さえたくなる衝動を
何とか堪えながら
彼は内心で小さく嘆息した。
「⋯⋯だ、だいじょうぶ⋯⋯ですか?」
小さくそう訊ねた彼に
彼女はただブンブンと首を振るだけだった
羞恥の余波が
なおも彼女を呑み込んでいた──⋯
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