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光が落ちたように
時也の微笑みの〝仮面〟に翳りが滲んだのを
アラインは、誰よりも早く──
まるで
あらかじめ知っていたかのように察した。
夜会の空気は華やかさを装いながら
実際には濃密な〝澱〟を孕んでいた。
煌めくシャンデリアは
天井で優雅に揺れているというのに
その輝きの下に蠢くものは
もっと粘つき、もっと暗い。
そこに映り込むのは
欲望の脂、嫉妬の影、欺瞞の靄──
光の粒子が降り注ぐほど
人々の心の〝濁り〟は
鋭く輪郭を現していくようだった。
そのすべてが──
読心術という刃を抱く時也の内側を刺し貫く。
──光に照らされた針山を
素足で歩かされるような苦行──
(さぞ、ここは
キミにとって〝地獄〟だろうねぇ⋯⋯?)
アラインは
表層では気遣う夫の貌を貼りつけながら
胸の内だけは、絹糸のように柔らかく
毒を含ませる。
指先ひとつ、 空気を撫でるだけで
フロアスタッフを呼び寄せ
銀の盆から二つのグラスを受け取る動作すら
舞踏のように滑らかだった。
横目に捉えた時也の視線が
静かに、しかし確かに訴える。
──潜入中に、酒など。
声にならぬ非難が
眉の繊細な動きひとつに宿る。
時也らしい、美しいほど整った〝抗い〟
だが、アラインにとっては
それですら愉悦の種でしかなかった。
「ねぇ、モナムール。
そんな張りつめた顔をしては──
世の男たちが、放っておけなくなるよ。
ほら、これでも飲んで⋯⋯
少し、肩の力を抜いて?」
囁きは、仮面夫婦を演じるためではなく
まるで心から伴侶を気遣う者のように甘く
低く沈む。
(読心術の負荷で
〝眉間が痛む〟んじゃないかい?
でもね、こんな場で暗い顔は
〝合図〟になる。
⋯⋯それに、キミはこれくらいで酔うほど
脆くはないだろう?)
アラインは流麗に偽装した〝親切〟を
そのまま心の内で響かせるよう時也へ渡す。
僅かに目を伏せた時也の胸に
ひとしずくの同意が揺れ広がった。
(⋯⋯確かに、一理はありますね)
控えめな仕草で、二人のグラスが触れ合う。
澄んだ音はシャンデリアの光に吸い込まれ
まるで天井へ還っていく
祈りのように消えた。
時也が一口、慎ましく含む。
アラインは、その喉の動きを確かめてから
自らも唇を濡らした。
──その瞬間。
(⋯⋯ほぉ?)
喉を落ちていく液体の
滑らかな〝装い〟の奥に潜む
微細なざらつき。
舌で捉えようとすれば霧散するほど繊細で
されど
体内に落ちた瞬間に熱へと形を変える──
〝悪意〟
毒ではない。
命を奪うには、あまりに〝控えめ〟だ。
しかし──
意識を鈍らせ、判断を溶かし
昂揚を媚薬に偽装する。
静脈の内側を
ひそやかな熱が撫で上げるように広がった。
(やれやれ⋯⋯
随分と〝お行儀の良い仕掛け〟だねぇ)
アラインの口元には微笑が張りついたまま。
だが、その内側で静かに咲く愉悦は
黒百合の香のように
ゆっくりと花弁を広げていった。
──主催者は客を〝家畜〟と見做している──
その残酷な真実を
ワインの舌触りが雄弁に告げていた。
甘やかすように滑らかでありながら
どこか不自然に喉へ絡みつく。
旨味の陰に潜む微細なざらつきは
品格を装った毒のように
飲む者の自我をゆっくりと緩めるための
〝仕掛け〟であることを
アラインはひと口で理解した。
だが、アラインにとってその味わいは
興味深い扉をひとつ開くに過ぎない。
その理解は──
愉悦へと姿を変え
自然と別の想像へと枝を伸ばす。
──もし、これを〝あの男〟が飲んだなら。
桜の樹下で静かに微笑む
柔らかな春光のような男の姿が脳裏に浮かぶ。
だが次の瞬間
その同じ男が
燃え上がる紅蓮の花弁を刃へ転じ
血煙の向こうで
ひとひらの乱れもなく敵を屠り去る──
あの静謐でありながら容赦の欠片もない
〝殺戮の天使〟へと変貌する。
光と闇の両極が、一つの魂に宿った奇跡。
常に理性と慈悲によって
封じ込められている〝紅蓮の中枢〟
そこへ、この微量の薬が触れたなら──
押し留められていた天秤は
どう傾いていくだろうか──
(さぞ、美しい〝堕天〟が
見られるだろうねぇ……)
アラインはそっとグラスを置き
寄り添う〝妻〟──
仮面のような微笑を湛えた貴婦人の横顔へ
視線を落とした。
時也は、その視線の温度に気付き
静かに顔を上げる。
微笑みの仮面は崩れていない。
だが、鳶色の瞳がわずかに揺れ
酒に潜む違和感を訴えるように細められた。
アラインはわずかに顎を上げ
その動揺を〝正当化するための逃げ道〟を
柔らかく、温度を帯びた声で差し出した。
「ふふ⋯⋯このワイン、ね。
甘いだけじゃないだろう?
後口に、土の香りが微かに残る。
ブドウよりも
樽そのものの呼吸を 愉しませるような⋯⋯
そんな〝癖〟のある仕立てなんだ。
敏い人ほど、それが違和感として
舌に触れるかもしれないね」
その声音は
洗練されたバーテンダーの矜持を超え
〝真実の嘘〟を紡ぐ術師の魔性を孕んでいた。
時也はわずかに瞬きをし
疑念の棘が
ほどけていくのを感じ取ったように
静かに──安堵を装う仕草で頷く。
そして改めて、ワインへ唇を寄せる。
紅い液面にゆらりと揺れる
その横顔を見つめながら
アラインは目を細めた。
この夜会が幕を閉じる頃には──
このフロアには
どれほど鮮烈で
どれほど美しい地獄が
このフロアに咲き乱れるのだろうか。
想像するだけで
胸の内に沈む紅がひそやかに波立ち
静かな狂気が
黒い水面に花弁となって落ちたように
愉悦とともに広がっていく──