テラーノベル
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──光の粒子が降りしきる会場の只中で
沈黙の歯車は、ひそやかに、しかし確実に
嚙み合い始めていた。
まるで天蓋から零れた星々が
夜気を孕んだ花弁のように散りながら
貴顕たちの衣擦れを銀砂のごとく照らし出す。
香水と絹、笑声と密談──
それらが重なり合う華やぎの海の中で
ただ一人、アラインだけが
場の潮流とは別の深度に佇んでいる。
彼は、視線をわずかに落とした。
そこにあるのは、時也の唇の端
ルージュの微かな〝乱れ〟──
ほんの一条の翳りでしかないそのほつれを
アラインは〝見逃す〟という選択肢を
初めから持たなかった。
「おや……キミ。
せっかくの〝艶〟が滲んでしまっているよ」
囁きは、絹糸が空気を撫でるように細く
静かで、冷たい。
アラインの親指が、紅の端をそっと拭い取る。
その所作は流麗で、そして容赦なかった。
触れられた場所には、炎ではなく──
研がれた刃物の背でなぞられたかのような
ひややかな質感だけが落ちる。
触れた瞬間に塗膜がほどけ
紅の光沢が静かに指へ吸われていく。
時也の肩が
その僅かひと指で、小鳥のように震えた。
それは、伴侶を気遣う仕草ではなかった。
まして慈悲を含んだ触れ方でもない。
己が所有する最高傑作の〝美〟を
正確に整える職人の手つきに近かった。
そして、アラインはほとんど同時に動いた。
流線を描いて取り出されたハンカチが
紅を移したグラスの縁を
ひと息で覆い隠す。
痕跡は白布に沈み
そのまま銀盆の上へ置かれた。
まるで海底に沈む小石のように
何事も初めから存在しなかったかのように
夜会の賑やかさに痕跡は消えていく。
会場の光はなお降り続けているのに
その瞬間だけ──
二人の周囲には〝音すら熟しきった静寂〟が
満ちていた。
⸻
隣席の婦人の視線が その所作の失態を
まるで大罪の瞬間を目撃したかのように
冷えた刃となり時也の横顔をかすめる。
時也の胸の奥で
小さな灯火がしぼむ気配があった。
俯く動作は慎ましいはずなのに
どこか悲愴さを帯びる。
(⋯⋯レイチェルさんに、あれほど
〝飲食時の所作には気をつけて〟と
戒められていましたのに⋯⋯)
貴婦人の所作は
数刻で身体に宿すには──
あまりにも緻密すぎる。
形ばかり優雅に見せる仮面の下で
羞じらいはじりじりと熱を帯び
時也の心をわずかに締めつけていく。
けれど、その揺らぎでさえ──
アラインにとっては蜜より甘い愉悦であり
彼はそれを楽しげに喉の奥で転がした。
時也を眺める眼差しを愉しげに細め──
その薄氷のような視線の先で
フロアの影に佇むソーレンと
静かに目を結ぶ。
指が、合図とも呼べぬほど静かに動いた。
掌を下に下げたまま
中指と人差し指だけを僅かに折り
そっと招く。
舞踏会に溶け込む優雅な礼節に見えて
その実
拒むことすら許さぬ〝命令〟である。
ソーレンの
苛立ちを隠しきれぬ呼気がわずかに漏れた。
(⋯⋯あ?呼んでんのか、俺を?
行っていいのかよ、この状況で)
重心の低い歩幅で警備列を抜ける。
その歩みは無骨で
華やかさに包まれた場に
似つかわしくないはずなのに──
アラインの視線が刃のように閃いた瞬間
ソーレンの背筋が不承不承に伸びる。
まるで首根を掴まれ
形だけ礼装させられた獣のように。
「⋯⋯ 何のご用でしょうか──〝旦那様〟」
噛みつきたい皮肉を呑み込みながら
声音だけは完璧な従者に整える。
アラインは、涼しい面差しのまま答えた。
「彼女の鞄を」
ソーレンの手から鞄を受け取りながら
アラインは、表情には影を落とさず
心の底ではひどく愉悦に満ちた声で囁く。
(⋯⋯時也。
レストルームで直してくるといい。
ただし──
いつもの習慣で〝紳士用〟に入らないように)
その瞬間、 時也の内側は
声にならぬ悲鳴を上げるように震えた。
(〝婦人用〟にだって──入れませんよ!!)
喉が焼けるように熱を帯び
身体は逃げ出したい衝動で軋む。
しかし彼の顔には辛うじてまだ
微笑という仮面が美しく貼り付いている。
ただの一筋の破綻も許されぬ仮面。
その完璧さの裏で、心だけが血を流していた。
彼は一礼の角度すら乱さぬまま
ほとんど逃走に近い
しかし貴婦人として
誰よりも優雅な速度で会場を抜けていった。
琥珀色の眼差しが、時也の背を追い
やがてその光は
まっすぐにアラインを射抜いた。
臍の前で組まれた両手──
その甲を、人差し指が微細な律動で叩く。
沈黙に埋もれた〝モールス〟の囁き。
(⋯⋯アイツ、しんどいんだろ。読心で)
アラインもまた、腕を組んだまま
無表情の面の下で
わずかな指の動きを応じさせた。
(だろうね。少し逃がしてやらないと。
⋯⋯まあ、作戦に支障はないだろうさ)
人の流れの隙間を縫うように
傍らを過ぎるフロアスタッフの銀盆から
アラインは二つのグラスを
流麗な動作で抜き取る。
そのひとつを、ソーレンへ差し出した。
光の粒子を受けた液面が揺れ
ソーレンの眉間に深い困惑の皺が刻まれる。
(⋯⋯あ?護衛の俺に酒?
お前、正気かよクソが)
しかしアラインは、微笑を深めた。
冷えた甘美が底を隠し
毒を飴の殻で包むような笑み。
「いつも見事な働きだよ。
〝使用人への褒美〟──
この街ではね、そういう趣向を好むのさ」
(うっわ⋯⋯!
鳥肌モンの気持ち悪ぃ笑顔しやがって)
悪寒を背に這わせながらも
それでもソーレンは理解する。
この行動は ──〝意図〟 だ、と。
沈黙のままグラスを受け取った。
兩つの玻璃が触れ合い、細い音を立てる。
ソーレンはひと口含んだ。
舌に落ちた瞬間──瞳がわずかに細まる。
(⋯⋯気づいた、ね?)
アラインの指先が
再び緩やかなリズムを刻む。
(裏へ行って、これの出所を探れ。
キミの得意分野だろう?
こういう──〝汚れ〟の扱いは、さ?)
ソーレンは
挑発を払い除けるように首を鳴らし
深い溜息を天井へ押し上げた。
(⋯⋯ほんっっと、お前の性格
悪魔みてぇに悪ぃわ)
しかしその溜息の底には、 静かに沈む──
乾いた〝諦め〟と
そして否定しきれない〝信頼〟があった。
アラインは
あえて無邪気な鈴音のような声色を纏う。
「では、妻を頼むよ?
ボクは少し──〝挨拶回り〟があってね」
「⋯⋯承知しました、旦那様」
ソーレンはグラスを傾け
残った酒を一息で喉に落とした。
体内に、薬の成分を敢えて自ら濃く回す。
揺らぐ視界の端を──
氷刃のような意志が、しっかりと縫い止める。
(こんなもんで
俺の頭が潰れるわけねぇだろ。
⋯⋯せっかくのワイン、台無しにしやがって)
踵を返した途端、彼の影は濃さを増し
夜会の闇へと進み出す。
紫煙のように細く、確実に。
紅蓮の夜を灼かぬ静火のごとく──
その背に纏う沈黙は
怒りでも焦燥でもなく
〝任務へ降りる者の覚悟〟そのものだった。
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