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やばい、中身がない。
信治たちの無様な悲鳴が遠ざかり、再び二人きりになった車内。中也はハンドルを握りながらも、隣で新調した制服をぎゅっと握りしめている太宰の横顔を、何度も盗み見ていた。 太宰は窓の外、暮れなずむ街並みをじっと見つめている。その瞳には、先ほどの恐怖の残滓ではなく、どこか遠い場所を想うような、淡い哀愁が漂っていた。
「……治」
中也が静かにその名を呼ぶと、太宰は弾かれたように中也を見た。 「あ、……ごめん、中也。何か言った?」
「いや。……お前、さっきの場所で、あいつらに『今の私はあの家の治じゃない』って言っただろ。……格好良かったぜ」 中也は太宰の頭を片手で乱暴に、けれど慈しむように撫でた。 「……だけどよ、お前。太宰家の奴らにあんなに疎まれてて……学園でもあんな調子だったんだ。……普段、どこで何してたんだ? 逃げ場所の一つくらい、あったんじゃねぇのか」
中也の問いに、太宰は一瞬だけ、言葉を詰まらせた。 それは、彼が誰にも、それこそ自分自身にさえ、あまり意識させないようにしてきた秘密の領域だった。 「……普段、行っている場所?」
「ああ。……お前が独りで、誰にも邪魔されずに、自分を『ゴミ』だなんて思わずに済んだ場所だ。……もしあるなら、俺にも教えろよ。……お前の全部を、俺の重力の中に閉じ込めておきてぇんだ」
中也の独占欲は、もはや隠すことすらしない。 太宰は、その重苦しいまでの愛に、ふっと綻ぶような笑みをこぼした。 「……中也は、本当に欲張りだね。……いいよ。中也にだけなら、見せても。……あんな薄暗い場所、中也には似合わないと思うけど」
太宰の指差しに従って、中也は車をさらに街の境界線へと走らせた。 辿り着いたのは、帝都の華やかな中心部からは程遠い、古い運河沿いにある打ち捨てられたレンガ造りの倉庫街だった。海風が潮の香りと共に、鉄の錆びた匂いを運んでくる。
「……ここか?」 中也が怪訝そうに尋ねる。 「うん。……この、三番目の倉庫の、さらにその下」
太宰は、中也の手を引いて、錆びついた鉄扉の脇にある、隠された小さな入り口へと導いた。 そこは、かつての貯水槽だったのか、地下へと続く急な階段になっていた。中也は、太宰が転ばないようにその腰を抱き寄せ、自らの異能で微かな光を放ちながら、闇の底へと降りていった。
階段を降り切った先には、太宰が「薄暗い」と言った通り、湿った空気の漂う空間が広がっていた。 だが、中也が異能の光を広げると、そこには驚くべき光景があった。
壁一面に、棚が設えられている。 そこには、学園の図書室にもないような古い書物、そして何百、何千という「瓶」が並べられていた。 瓶の中には、道端で拾ったであろう綺麗な石、枯れた花、壊れた時計の部品、そして――太宰の繊細な文字で綴られた、詩のような、独り言のような紙片。
「……これは……」 中也は、その空間の圧倒的な「孤独の密度」に息を呑んだ。 ここは太宰治という少年の、魂の標本室だった。
「太宰家にも、学園にも、私の居場所はなかった。……だから、ここにあるものだけが、私の『友達』だったんだ」 太宰は、棚の一つから小さな瓶を取り出した。中には、色褪せた青いリボンが入っている。 「これは、お母様が最後に髪に結んでくれたもの。……家の人たちに見つかったら燃やされちゃうから、ここに隠したの」
太宰は、瓶を抱きしめるようにして、寂しげに笑った。 「……歪んでるでしょう? 誰もいない地下室で、ゴミみたいなものを集めて、独りで喋ってるなんて。……中也、引いちゃった?」
太宰が不安げに中也を見上げると、そこには、太宰の予想とは全く違う表情があった。 中也の瞳は、怒りに燃えているわけでも、憐れんでいるわけでもなかった。 ただ、深い、深い、慟哭に近いような愛おしさに濡れていた。
「……引くわけねぇだろ、バカ」
中也は、太宰をその場に押し倒すようにして、強く抱きしめた。 地下室の冷たい床の上で、二人の体温だけが異質に燃え上がる。 「……お前が、こんな場所で独りで耐えてきた時間を思えば……俺は、自分を殴りてぇよ。……どうして、もっと早くお前を見つけ出せなかったのかって」
「中也……」
「治。……ここは、お前の『心』そのものなんだな」 中也は、瓶に囲まれた太宰の顔を見つめ、その震える唇に指を当てた。 「……綺麗だよ。……ゴミなんかじゃねぇ。……お前が守り抜いてきたこの『欠片』たちは、全部、お前が生きようとした証だ。……それを歪んでるなんて、誰にも言わせねぇ」
中也は、太宰の制服のボタンを一つ、また一つと外していった。 「……中也、ここで……?」 「ああ。……お前の孤独が染み付いたこの場所を、俺の愛で上書きしてやる。……これからは、ここに来る時は俺と二人だ。……お前の秘密も、思い出も、全部俺が共有してやる」
中也の熱い舌が、太宰の鎖骨の傷跡をなぞる。 「……あ……っ、中也……」 太宰の細い足が、中也の腰に絡みつく。 地下室の冷気が、中也の放つ「重力の熱」によって、急速に溶かされていく。 太宰は、自分の「聖域」が中也によって侵食されていくことに、形容し難い悦びを感じていた。 誰にも見せたくなかった場所。自分だけの、醜いと思っていた場所。 そこを中也は「綺麗だ」と言い、自分の熱で満たそうとしている。
「……私を、壊して……中也」 太宰は、中也の首に腕を回し、その耳元で熱い吐息を漏らした。 「……あなたの重力で、私の中にある孤独を、全部押し潰して。……中也の愛以外、何も考えられないようにして……」
「言われなくても、そうしてやる」
中也の激しい愛撫が、太宰の感覚を白濁させていく。 瓶の中に閉じ込められていた太宰の心は、今、中也という力強い奔流によって、外の世界へと引きずり出されていた。 歪んだ愛。重い愛。 けれど、太宰治という少年には、これほどまでの重圧がなければ、自分の存在を繋ぎ止めることができなかったのだ。
やがて、二人の吐息が地下室の沈黙に溶けていく頃。 中也は、ぐったりと自分の腕の中で眠る太宰を、大切に抱き上げた。 「……治。……もう、独りでここに来る必要はねぇぞ。……お前の居場所は、俺の腕の中だ」
中也は、太宰が大切にしていた青いリボンの瓶を、自らの懐に仕舞い込んだ。 「……これは、俺が預かっておく。……お前の過去も、全部俺が背負ってやる」
地下室を出る時、中也は一度だけ振り返り、その暗闇を睨みつけた。 (……太宰家。……あいつを、こんな暗い場所に追い込んだ代償……。……金や地位だけで済むと思うなよ)
中也の瞳には、冷徹なまでの決意が宿っていた。 彼が太宰を救うということは、単に彼を守るということではない。 彼を傷つけた世界の全てを、中原中也という重力の下で、再定義し直すということなのだ。
翌朝。 中原家の屋敷で、太宰は眩しい光の中で目を覚ました。 隣には、自分を抱きしめたまま眠る、愛おしい主人の姿がある。 太宰は、中也の胸に顔を寄せ、その力強い鼓動を聴きながら、初めて心から安らかな朝を迎えた。
だが、同じ頃。 帝都の裏社会では、太宰信治と繋がっていた犯罪組織が、中原中也という「怪物」への報復を開始しようとしていた。 そして、太宰家には、中也が仕掛けた「社会的な死」が、音を立てて崩れ落ちようとしていた。
「(……中也がいれば、私は、もう何も怖くない。)」
太宰は、中也の手を握りしめ、再び浅い眠りへと落ちていった。 歪んだ二人の純愛は、これから訪れるさらなる嵐を、その圧倒的な重力で、粉砕していくことになる。
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