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🫧プロローグ「泡に沈む鏡の国」
それは名前のないころの夢だった。
聖名(みな)という響きもまだ遠く、言葉よりも感情の色で世界を見ていた時代。
ふとした眠りの中、彼女は鏡の前に立っていた。
鏡は喋らなかった。
でも、奥に“もうひとつの空”が浮かんでいた。
その空は泡立っていて、言葉を話すと泡がふわりと口から浮かんだ。
聖名(みな)は鏡を押して、中へ落ちた。
光も音もやわらかかった。重力がゆるく、時間はときどき止まった。
その世界には、トランプの兵隊たちが記憶を順番に棚へ並べていた。
猫たちは寝言しか話せず、時計は感情の数だけ回っていた。
鏡の国――“泡にならなかった感情”が住む場所。
その世界で、彼女は出会う。
ひとりの少年が、泡のピアノを弾いていた。
髪は銀色、瞳はグラスブルー。
名前はなかった。でも、彼は「律」と呼ばれるような音を持っていた。
「君の言葉は、泡にならないね。
それって、この国ではとても珍しいことなんだ。」
彼の指先が奏でる旋律は、“まだ話されていない記憶”だった。
誰かの涙、誰かの怒り、誰にも届かなかった優しさ――
泡になる寸前の感情が音になっていた。
聖名(みな)は、話そうとするたびに言葉が泡になった。
それでも律には伝わっていた。泡の色で、感情の濃度が読めるらしい。
「ここはね、名前を持つと記憶が揺れる。
だから君も、今は名前を持たなくていいよ」
そう言った律の声は、泡のように軽くて、音のように深かった。
夢の終わりは、鏡が割れる音だった。
泡の粒が空に舞って、彼の姿が見えなくなる。
目が覚めたあとも、律の旋律が耳の奥に残っていた。
教室で、斜め前の席に座る彼の後ろ姿に、何かが重なった。
自分でも知らない記憶の層が、泡にならずに残っていた。
そしてその日、音楽室で彼と“ふたたび出会う”瞬間が訪れる。
けれどそれは、ただの偶然ではなく――
あの日の泡の国が、静かに扉を開けた証だった。
🫧プロローグ「鏡の国の律」
あれは中学1年の春。
まだ制服がしっくりこない時期で、教室の声が遠くに感じていた。
その夜、聖名(みな)は不思議な夢を見た。
鏡の中に世界があった。
枠は銀色、表面は水のように揺れていて、見つめると中に空が見えた。
その空は泡立っていて、雲は透明、太陽はスプーンの形をしていた。
聖名(みな)は鏡に指を触れた。
すると、肌が沈んでいき――次の瞬間、彼女は落ちた。
鏡の世界へ。
そこは、感情が泡になる国だった。
誰かが言葉を話そうとすると、声の代わりに泡が口からこぼれた。
それぞれ違う色をしていて、赤は怒り、青は孤独、紫は説明できない気持ちだった。
聖名(みな)は名前を持っていなかった。
この国では、名前を持つと泡が壊れるらしい。
そして、泡の図書館の隣で彼女は出会う――
泡のピアノを弾く少年。
銀灰の髪。青みを帯びた瞳。
見覚えのない顔なのに、なぜか心の奥が波打った。
彼は名乗らなかった。
でも、“律”と呼ばれたらきっと振り向くだろうと、聖名(みな)は感じていた。
「君の感情、泡にならないね。
この国では珍しいタイプだ」
少年は言った。
その声は、音のようだった。
聖名(みな)はしゃべれなかった。
言葉にならない感情が泡になるのを、怖れていた。
それでも、少年は彼女を見て笑った。
「君は、“名前になる前の言葉”を持ってる。
それって、いちばん消えにくいものだよ」
彼のそばには、銀のスプーンがあった。
泡をすくって記憶に変える道具。
夢の中なのに、聖名(みな)はそれを見て「知ってる」と思った。
夢の終わりは、泡の雨だった。
空から降ってきた泡が地面を満たし、世界が反射する。
鏡が閉じる。
少年の瞳が最後に浮かんだ。
聖名(みな)は目覚めても、その感情を忘れられなかった。
名前もないのに、あの人は“律”に似ていた。
高校で彼の名前を聞いたとき――
胸の奥で泡が割れた。