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🫧第1話「泡にならなかった声」
春の教室。
窓の外で、桜の花びらが舞っていた。
その風景は、夢で見た泡の世界に少しだけ似ていた。
泡立つ空、スプーンの形をした太陽。
名前を持つことが怖かった時代の、鏡の中の記憶。
聖名(みな)は、新しいクラスで“律”という名前に出会った。
銀灰ではないけれど光に透ける髪、言葉少なげな瞳。
名前を聞いた瞬間、胸の奥がじわりと泡立った。
誰かに触れられた記憶が、まだ沈んでいた感情を揺らした。
それは、中学1年のときに見た夢。
鏡の中に落ちた自分が、泡のピアノを弾く少年と出会ったあの日――
その面影が、教室に座っていた。
放課後。誰もいない廊下。
聖名(みな)の足は、理由もなく音楽室へ向かっていた。
「話しかけるのは違う気がする」
だけど、「音なら届く気がする」
音楽室の扉を開けると、譜面のない旋律が空気を震わせていた。
律がピアノの前に座っていた。
その姿は夢よりも現実の重さを持っていた。
でも、指先は夢のまま――泡のように滑らかに鍵盤を泳いでいた。
聖名(みな)は、声をかけることができなかった。
喉まで来た言葉が、泡になって口元で弾けた。
律は演奏を止めず、小さな声で言った。
「名前って、言葉にすると記憶になる。
記憶になると、泡にならない。
でも、それが怖いこともあるよね」
その言葉に、夢の記憶が重なった。
泡にならなかった言葉。名前を持たないまま交わした会話。
あの世界では、名前を呼ぶと鏡が割れた。
机の上に置かれていた銀のスプーン。
聖名(みな)は目を見開いた。
夢の中で見た記憶すくいの道具。
泡になる前に感情を掬い、誰にも渡す前に飲み込むスプーン。
「そのスプーン、夢で見たことがある」
「泡のピアノを弾く君が、記憶を食べるために使ってた。
鏡の国で、名前を持たないまま、わたしを呼ばない君がいた」
律は、静かにスプーンを持ち上げた。
「君も……そこにいたのか。
でも、あれは夢だったはずなのに、
泡にならなかった君の声だけが、なぜか残ってた」
空気が一層静かになった。
音楽室が、泡の世界へと滑っていった。
聖名(みな)は言った。
「教室であなたの名前を聞いた時、なぜか泣きそうになった。
頭では初対面なのに、胸の奥が“知ってる”って言ってきたの。
わたし……忘れられなかったんだと思う、あの泡の国を」
律は指でピアノを撫でる。
鍵盤は震え、旋律がひと粒の泡になって浮かび上がる。
「夢の記憶は、泡のようなものかもしれない。
すぐ消えそうで、でも消えずに心に残る。
君の声が、ぼくの音の中にずっといた気がする」
その音は、名前の代わりになった。
ふたりが交換したのは言葉ではなく、泡にならなかった気持ち。
そしてその日――
鏡の中で出会った律に、現実で“はじめて会った”。
泡が割れることなく、空気の中に残った。