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昼下がりの廊下。誰もいない昇降口の脇、石造りの壁に寄りかかって、遥は缶コーヒーを握っていた。
まだ開けていない。微かに手が震えている。
蓮司との“昼のふざけたキス”が、教室中に冷たい空気を撒き散らしていた。
女子たちの視線は剃刀のように、遥の首筋を切り裂く。
その直後に、何も言わずに遥の袖を掴んで連れ出したのが日下部だった。
「──なんで、こういうことするんだよ」
唐突な問いだった。
感情は抑えていた。けれど声の底に、どうしようもない痛みが混じっていた。
遥は顔を上げない。
「……何が?」
「わかってるだろ」
「知らねえよ。おまえに関係ないし」
返す声は固くて、でも脆い。
日下部は少しだけ口を噤んだあと、真正面から遥に向き直った。
「俺は……おまえが何をされてるのか、知らないふり、もうできない。ずっと“見てた”からって、それでいいわけなかったんだ」
その言葉に、遥は一瞬、肩を震わせた。
でもすぐに缶を足元に投げつけて、鋭く睨み返す。
「見るだけにしとけよ。今さら正義面してんじゃねぇよ」
「違う。……正義とか、そんな話じゃない」
「じゃあ、何? “哀れ”に見えた? “助けてあげたい”とか? そういうの、いちばんムカつくんだよ」
吐き捨てるような声。
だがその奥に、にじむような怯えがあった。
「おまえに助けてほしいなんて──思ってねぇし。頼んでねぇし。
……俺は、そういう人間じゃないし。
おまえに何を見られても、何を思われても、関係ないから」
言いながら、遥は視線を逸らした。
でも、嘘だった。
ほんとうは、関係しかなかった。
──ただ、信じてしまえば壊れる。
──期待すればまた潰れる。
──頼れば、奪われる。
それを、もう何度も経験してきた。
日下部の手が、ゆっくりと伸びてくる。
──それが、「触れよう」としてると感じた瞬間、遥は咄嗟に後ろへ跳ねるように逃れた。
「触んな!!」
廊下に響いたその声に、遠くの教室から誰かが振り返った。
日下部の指先が宙を彷徨う。
遥は、その手を見ることができなかった。
「……俺、帰る」
踵を返し、走り出す。
逃げなければ。
触れられたら、壊れる。
階段を駆け下りる途中で、遥は何かを噛み潰すように唇をかんだ。
──違う。
──ほんとは、あの手に触れたかった。
──でも、そんな資格、俺にはない。
日下部は、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥に、冷たい何かが落ちていく。
「助けたい」なんて言えば、遥はもう戻ってこない。
だから──言えなかった。
だけど、もう「見ているだけ」には戻れなかった。
(……逃げても、探す)
その意思だけを、心に刻んで。