テラーノベル
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夕方、六時を回った頃。
台所で夕飯の味噌汁を温め直していた柊吾の耳に、カチャリと静かな音が届いた。
隣の部屋のドアが開く音。そして、鍵がかかる音。
(あ……戻ってきた……)
朝、去っていった瑞樹が帰宅したのだ。
壁一枚隔てた隣に彼がいるのだと思うと、急に心臓がドキンと跳ね上がる。
夕飯を終え、真理子を風呂に入れて寝かしつけた後。
夜の九時を過ぎた室内で、柊吾は何度も資料とベランダへ通じる窓を交互に見つめていた。
(……聞くなら、今しかないよな)
心臓が破裂しそうなくらいうるさい。夢のことも、AVのことも、まだ全然吹っ切れてなんかいない。
だけど――この手の中にある資料の温もりと、父親たちとは違う「手を差し伸べてくれた感覚」だけは、どうしても無視できなかった。
冷たい夜気を吸い込み、意を決して窓を開ける。
ベランダへ出ると、案の定、隣の柵の向こうに人影があった。
夜の闇の中、小さなオレンジ色の火種がゆっくりと明滅している。紫煙の香りが、夜風に乗ってふわりと漂ってきた。
「……黒瀬さん」
意を決して声をかけると、タバコを咥えた瑞樹がゆっくりと振り返った。
眼鏡の奥の瞳が、少し驚いたように丸くなる。
「柊吾さん。こんばんは。……どうかしましたか?」
「あの……朝は、すみませんでした。母さんがお皿割っちゃって、ちゃんとお礼も言えないまま……」
柊吾はぎこちなく頭を下げると、ぎゅっと握りしめていた手書きの資料を胸元にかかげた。
「この資料……すごく分かりやすかったです。僕みたいな素人でも、ちゃんと理解できて……。それで、あの……」
喉がキュッと詰まる。父親に捨てられて以来、人に頼るのが死ぬほど怖かった。
けれど、柊吾はまっすぐ瑞樹の目を見つめ、震える声を振り絞った。
「……介護申請、受けてみたいんです。……やり方、教えてもらえませんか?」
初めて、自分の意思で瑞樹に差し伸べた手。
瑞樹は一瞬だけ目を見開くと、咥えていたタバコを灰皿で消し、ゆっくりと微笑んだ。
「えぇ。もちろんです」
夜の闇に溶けたその笑みは、いつもより少しだけ深く、柊吾には読み取れない何かを含んでいた。
コメント
1件
かんなさん、こんばんは!はるです。今回のエピ、柊吾が初めて自分の意思で瑞樹さんに頼るシーン、すごく胸にきましたね…。あの震える声を絞り出す感じ、リアルで刺さりました。最後の瑞樹さんの笑み、何か含みがありそうで続きが気になります。優しい夜の空気感も好きでした。次も楽しみにしてます!
そあふぃー
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