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「ここに来るの久しぶりだわ」
懐かしそうな顔の一華。
「私は徹と何度か来ただけですけれど、やっぱり素敵ですね」
乃恵も手入れされた庭をのんびりと眺めている。
ここは都内にありながら大きな公園に隣接した緑豊かな場所。
広い敷地を囲むように木々が植えられていて、外からの視線を気にすることもなくゆったりと過ごせる。
会員制クラブと言うからには誰でもが入れるわけではないが、徹も、孝太郎も、一華も会員になっている。
「今日は孝太郎の名前で入店したから、何でも好きなものを注文してちょうだいね」
ちょっと笑いながら、麗子がカードを見せる。
「いいんですか?」
乃恵が心配そうな顔をした。
「いいのよ。孝太郎からカードを渡されてもなかなか使うこともないんだから、こんな時くらい豪遊しましょ」
「はあ」
どうせここは会員のカードでしか支払いが出来ないわけで、誰かのカードで支払うしかない。
わかってはいるけれど、乃恵は少し不安を感じていた。
***
案内されたのは窓際のソファー席。
近すぎず遠すぎず女性3人で使うにはちょうどいい広さで、ライティングされたお庭も見渡せる場所。
ここは乃恵が徹と始めてきた店。
『ここのクロワッサンが美味しいんだ』と教えてもらって、乃恵もその美味しさにはまった。
結婚してからも、休みがあう休日はここに来るのが楽しみだった。
でも・・・
「乃恵ちゃん、どうしたの?」
乃恵の表情が曇ったことに気づいた麗子が声をかける。
「何でもありません。ただ、素敵だなって」
「そう」
「さあ、何を飲みます?」
一華がメニューを広げる。
乃恵はもっぱらモーニングやランチの利用ばかりだけれど、この店のカクテルも美味しくてお酒の種類も多い。
この時間に来たからには何か飲みたいところだけれど・・・
「乃恵ちゃんはお酒ダメなの?」
2年ほど前、乃恵が心臓発作で倒れ2ヶ月も意識不明だったことは一華だって知っている。
ただ控えるようにと言われているだけで飲めないわけでもないが、みんなが心配するから外では飲まないことにしている。
「じゃあ、ノンアルのカクテルを」
「ええぇ、それってジュースでしょ」
一華の突っ込み。
「いいじゃない、好きなものを飲めば」
麗子の大人な発言で、乃恵はレモンベースのノンアルドリンクを注文した。
***
「それで、一華ちゃんは何にするの?」
「うーん」
メニューをめくりながら、なかなか決まらない一華。
ここは独身時代から通い慣れた店。
社長の娘って素性を隠して働いていた一華にとって、唯一素の自分に戻れる場所だった。
仕事で失敗しても働くことを反対している家族の前では泣くこともできず、何度もここで涙を流した。
懐かしいな。
あんなに通った店なのに、優華を生んでからは全く来ていない。
一華の生活もすっかり変わってしまった。
「とりあえずオススメのカクテルにする?」
注文が決まらない一華に麗子が提案するが、
「私、ジャスミンティーにします」
「「はあ?」」
麗子と乃恵の声がハモった。
「一華さん、さっき私にお酒を勧めましたよね?」
「まあね」
一華だって、飲みたい気持ちはある。
でも、
***
「2人とも忘れているようだけれど、私は母なのよ。それも授乳中のね」
「はあー」
乃恵が納得したように頷いた。
それでも、『何?』って顔をする麗子。
「授乳中の母親の飲酒はよくないんです。絶対に飲むなって訳ではありませんが、できるだけ避けるべきなんです」
乃恵の説明に
「へえー、大変ね」
麗子が素直な感想を口にする。
一華だって、なにが何でも飲まないと決めているわけではない。
たまに飲んだって問題ないかなと思うときもある。
でも、少しでも優華に影響があるかもしれないと思うと、欲しくなくなってしまう。
「一華ちゃんも、ちゃんとお母さんしているのね」
まだ新人で今の乃恵よりも若かった頃の一華を知っている麗子からすれば、感慨深いことだろう。
一華自身だって、「お母さん」と呼ばれることへの違和感は未だに消えない。
それでも優華はかわいいし、お父様もお母様もよくしてくださる。
今はただ浅井の嫁を勤めるしかないんだと、自分に言い聞かせている。
***
「で、麗子さんはなにを飲むんですか?」
注文を決めた乃恵が、麗子に尋ねた。
「私もノンアルにするわ」
「何でですか?飲んでください」
3人連れで2人がノンアルなら自分だけでは飲みにくいだろうけれど、気にせず飲んで欲しいと乃恵はアルコールを勧めた。
「本当にいいのよ」
「でも・・・」
「実は最近調子がよくなくて」
「よくないって?」
医者の性だろうか、つい問診口調になってしまう乃恵。
「たいしたことはないの。いつもより食欲がなくて、胃のむかつきがあるくらい」
「それって、妊娠じゃないんですか?」
一華の鋭い突っ込み。
「違うわよ。ちゃんと生理も来たし、妊娠ではないわ」
「なーんだ」
残念って顔をする一華。
「それでも、1度診てもらった方がいいですよ。よかったらうちの病院に予約を入れますけれど」
「乃恵ちゃん、ありがとう。でももう少し様子を見たいから」
「そうですか。必要なら、いつでも言ってください」
乃恵も一華も、麗子の体調不良は結婚前のストレスで胃の調子が悪いんだろうくらいにしか考えていなかった。
「ほら、飲まないんだから食べましょう」
麗子は話題をそらすように、料理の注文を始めた。
***
「ねえ、乃恵ちゃんはどうし今日私を誘ってくれたの?」
テーブルいっぱいに並んだ料理に半分ほど手がついた頃、一華が聞いてきた。
今日、病院での一華は機嫌も態度もよくはなかった。
よほどの目的でもなければ、あの状態の一華に声をかけようとは考えないはず。
そのことを聞いてみたいと、一華は思っていた。
「実は、一華さん聞きたいことがあるんです」
持っていたフォークを置き、一華の方に向き直った乃恵。
「なによ、改まって。そんなに、深刻な話?」
グラスを持っていた一華の手も止った。
「一華さんは徹と幼馴染ですよね?」
「うん、まあ。小さい頃に、一緒に住んでいた時期があるわ」
「じゃあ、徹の幼馴染で『ヒロミ』って女性を知りませんか?」
「ヒロミ?」
「はい」
「何者なの?」
イヤ、だから、それを聞いているのは私で。
乃恵は思わず突っ込みそうになった。
「何かあるから気になるんでしょ?」
「ええ、まあ」
おかしいなあ、質問したはずなのに逆に聞かれている。
しかたない、こんな聞き方をすれば気になって当然。
乃恵は諦めて事情を話すことにした。
***
結婚して1年半が過ぎた徹と乃恵。
お互い仕事も忙しく、2人で過ごす時間は多くはない。
休みもあわないし、急に仕事が入って予定をキャンセルなんてことも珍しくない。
それでも、時間を見つけて食事に行ったり、借りてきた映画を見たりして楽しく過ごしていた。
「好きな仕事をしている以上時間がないのはしかたがないと諦めていましたし、徹も理解してくれていると思っていたんです」
「違ったの?」
心配そうに、麗子が身を乗り出す。
「2ヶ月ほど前から急に帰りが遅くなって」
「それは、」
仕事が忙しいんでしょ?と言いたそうな一華の顔。
もちろん、乃恵も最初はそう思っていた。
きっと大きな仕事に取りかかっていて、忙しいんだろうと。
でも、
「この2ヶ月、毎日毎日日付が変わってから帰るんです。『忙しいの?』って聞いても『ああ』って答えるだけで、まるで私を避けているみたいで」
「うーん」
困ったなって顔の麗子。
夫婦なんて常に一緒にいる存在な訳で、良いときもあれば悪いときもある。
周りから見れば、気にしすぎぐらいに見えるのかも知れない。
でも、
「徹に来たメールをたまたま見ちゃったんです。『徹って、いつまでたっても子供の頃と変わらないのね』とか、『いつまで秘密にするつもりなの』とか。その差出人が『ヒロミ』さんで、最近では日に何度もメールがきていて」
「そんな、徹に限って」
さすがに、麗子は信じられないって顔をしている。
そうよね、普段の真面目な徹からは想像もできないもの。
乃恵だって、できることなら信じたくはない。
***
「それに、」
「まだあるの?」
一華の驚いた顔。
「仕事で帰ってきた徹から香水の匂いがするんです」
「香水?」
「ええ」
医者なんて仕事をしているせいか、乃恵は匂いの残るような化粧品は使わない。
最低限の化粧はするけれど、自分の匂いで相手に不快な思いをさせたくなくて普段から気を遣っている。
だからかな、余計に人の匂いは気になる。
「私が聞いてみましょうか?」
早速携帯をとりだした麗子。
「やめてください」
乃恵は麗子の手を止めた。
「どうして?何かの誤解かも知れないじゃない。本人に聞いてみるのが一番でしょ?」
それはそうなんだけれど・・・
「実は、仕事でないのはわかっているんです」
帰宅が遅くなって、会話がなくなって、徹から避けられている気がし出して1ヶ月ほどたった頃、乃恵はある行動に出た。
「私、GPSのアプリを徹の携帯に」
「入れたの?」
「はい」
それも、本人には黙ってこっそりと。
「乃恵ちゃん、結構大胆ね」
なぜか一華が笑い出した。
「すみません」
後から考えれば、バカなことをしたと思う。
だから、よっぽど気になるときにしか見ないことにはしている。
でも帰りが遅いときに確認すると、徹はいつも会社とは違う場所にいる。
もちろん、仕事で社外にいるってこともあるけれど、いつも同じ香水を付けて帰るってことは何かあるとしか思えない。
***
「ねえ乃恵ちゃん、徹さんに限って浮気なんて絶対にないと思うわよ。ヒロミって名前の女性も周りにはいなかったと思うし」
さっきまで鷹文の愚痴を言っていた一華が『徹さんに限って』なんて言うのか面白くて、麗子は笑いそうになった。
「どちらにしても、徹本人に確認するのが一番だけれど」
麗子の冷静な指摘に、
「イヤ、それは」
乃恵の困った顔。
さすがに直接はきけないか。
麗子は香山徹という男をよく知っている。
2枚目で、頭がよくて、もちろん仕事もできるけれど、愛想がいいとは言えない。
乃恵の前では表情が緩むけれど、基本的には無愛想で取っつきにくい。
簡単に人に心を許す人じゃないから、浮気なんて信じられない。
「とにかく、会社でも気にかけておくわ」
思い詰めた乃恵の顔を見て麗子はそう言うしかなかった。
「ありがとうございます、お願いします」
あと少しで結婚する麗子。
自分も結婚すればこんな思いをするんだろうか?
孝太郎に限ってとは思っているけれど、生活の中での不満や不安は必ず生まれてくるだろう。
なんだか心配だな。
それ以上の問題を抱えていることも忘れて、麗子は結婚への不安を募らせていた。