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「じゃあいきますよ、『こんにちは。ご機嫌いかがですか?』」
「…………こ、『こいちあ。こぎげん、いがかでちゅか?』」
「『有り難う御座います』」
「あ…………『あいがと、こじゃいまちゅ』」
「……やっぱり難しいですか」
「うーん……日本語特有の濁音とかSの発音とかが、韓国人には難しいんだぜ……」
この日俺は菊とマンツーマンで、日本語を話す練習をしていた。というのも、日本で暮らすならば、将来困らぬよう、日本語はマスターした方が良いと思ったからだ。それ以前に俺自身、日本語が話せたら良いな……と前々から思っていたが、当時はアイドルという仕事上、なかなか学ぶ機会が無かったのだ。
普段は菊が韓国語を話せるので、それで日常生活は助かっているわけだが……ずっと助けられてばかりでは駄目なのだ。菊自身が、韓国留学時そうだったように……「郷に入れば郷に従え」が、自ら出来る人間にならないと。
「あ!俺、このフレーズならちゃんと言えるんだぜ!『青は藍より出でて、藍より青し』!」
「……それは、発音しにくい部分が殆ど無いからでしょう?」
「…………バレたか」
「厳しいことを言いますが……やっぱりちゃんと話そうと思ったら、発音しにくい部分もしっかり克服しないと。聞き間違いによる誤解があってはいけませんからね」
「勿論分かってるんだぜ。何よりも、この国のいち市民として生きる上で……言葉の壁はやっぱり乗り越えたいからな」
そう言って、俺はフレーズの練習を再開した。
「こ……こん、こい……っっ」
「慌てずゆっくりで良いですからね。ヨンスさん」
「あ……ああ。こ、こ……『こんにちは』。ご……『ご機嫌、いかがですか?』」
「お、言えたじゃないですか。合格!」
「あ、あ……『有り難う、御座います』////」
「…………ふふっ」
ご褒美に、菊からポッポを貰う。
こりゃあもう……より一層、習得に向けて頑張らないと。
*
時刻は午後の11時。菊はもう、自室で寝ている。
俺はまだ起きていて、リビングでインスタントのカフェオレを飲みつつ、ドリルとにらめっこ。1字1字丁寧に、シャーペンで文字をなぞっていた。
そう、俺がやっているのは、小学校低学年向けのひらがな・カタカナのドリル。日本語を話せるだけではなく、読み書きも出来るようにと、菊が買ってくれたものだ。
(り、ん、ご……と。「りんご」は……ああ、「사과」のことか。「きつね」は……「여우」のことだな)
日本語での単語と、韓国での単語を、脳内で徐々に結び付けていく。誰が言ったか、「ローマは一日にして成らず」。少しずつ、少しずつ、意味を覚えて……そして、知識として積み重ねていく。
そうして黙々と書き続けていくうちに……俺はふと、こう思った。
(日本語で、メッセージを書いたら……菊は、喜んでくれるかな)
────思い立ったが、吉日。
俺は早速近くに置いていた韓和辞典(これも菊が買ってくれた。至れり尽くせりで、チンチャ有り難い)を引っ張り出し、色々と調べ始めた。それから……近くにあったメモ帳から紙を1枚引き千切り、書くことにした。
ハングルとはまた違う、日本語の文字の流れ。まだ慣れていないから、綺麗には書けないけれど……だけど大事なのは、想いを伝えたいという、強い意志だ。
失敗しては紙を丸めて捨て、失敗しては紙を丸めて捨て……7枚目にして漸く、ちゃんとした字を書けた。不格好な形なのは変わらずだが……それでも読める筈だ。
書き終えたと安堵と同時に……忽ち襲ってくる睡魔。もう少し、もう少しだけ、勉強したいけど……もう、限界だ。
やがて、視界が融けるように昏くなり……俺の意識は夢の世界へと誘われていった。
*
「……スさん、ヨンスさん!」
「んん…………」
菊に肩を揺すられ、漸く目が醒める。まだ眠い眼を擦って見回せば、いつの間にか空は明るくなっていた。
「え……俺、寝てた?」
「寝てましたよ。勉強熱心なのは良いことですけど、此処だと風邪引きますよ」
「…………ミアネヨ」
俺は菊に軽く詫びると、テーブルの上に広げていたドリルと筆記用具一式を片付けた。これから朝食。今の時間、置いていても邪魔なだけだ。
「あの…………ヨンス、さん」
「何だぜ、菊」
「その…………これって…………」
「……!」
菊に声を掛けられ振り返ると、彼の手には1枚のメモ用紙。心なしか、その頬は紅い。
それもその筈。それは昨日俺が頑張って日本語で書いた……菊への手紙なのだから。
「これ…………記念に貰って、良いですか?」
「…………ああ。文字、まだ下手糞だけどな」
「ううん、嬉しいです…………貴方が書いてくれたという事実が、私は凄く嬉しい…………」
メモ用紙を胸元で包み込むように握り、うっとりと目を閉じる菊。俺はそんな彼に近寄り、耳元で囁いた。
「菊」
「…………はい」
「……『ずっと、一緒だ』」
「ええ、私も…………私もです…………」
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