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めるる@コメ貰ったら返す主義
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黒宮
16
カイルが去ったあと、古書庫にはしばらく紙の匂いと静けさだけが残っていた。
アリアは椅子へ腰を下ろしたまま、閉じた扉を見つめていた。胸の奥は不思議なくらい静かだった。少しだけ疲れていて、少しだけ空っぽで、でも間違ってはいないという感覚だけは確かにあった。
今の会話で、何かが決着したわけではない。婚約が解けたわけでもないし、侯爵家が引いたわけでもない。けれど、もう後戻りはできないところまで来たのだと、はっきり分かった。
カイルはようやく、自分の前にいる婚約者が「静かに従うだけの娘」ではなくなっていることを理解した。
そしてアリア自身もまた、彼に合わせて自分を小さくするつもりがもうないことを、言葉にして認めた。
「……ここまで来たのね」
小さく呟くと、ローベルトが茶器を置きながら控えめに言った。
「まだ途中でございますよ」
「ええ。分かっているわ」
分かっている。
分かっているからこそ、今の静けさが少し怖い。
大きなものが動く直前ほど、音が消えることがある。まるで嵐の前の空気のように。
その時だった。
古書庫の外から、今度は荒くはないが急いだ足音が近づいてくる。
マリーでも若い使いでもない。
もっと規則正しく、けれど普段より少し速い。
扉が叩かれた。
「お嬢様、ローベルト様。旦那様より、すぐに執務室へと」
外から聞こえたのは、年配の使用人の声だった。
屋敷の中で重要な伝言だけを任される男だ。
それだけで、ただ事ではないと分かる。
アリアは立ち上がる。
「何があったの?」
「王城より正式な使者が到着されました。かなり急ぎのご様子で……その、旦那様が『アリアも必ず』と」
やはり来た、と胸の奥で思う。
王城がまた動いたのだ。
しかも今度は、父だけではなく最初から自分を席に着ける前提で。
もう本当に、前のような「家の中で片づく話」ではなくなっている。
ローベルトがさっと机上の紙を整える。
「北方越境路の控えはお持ちになりますか」
「ええ。今朝の整理分も全部」
そう答えながら、アリアは自分でも驚くほど迷いがないことに気づいた。
数日前までなら、王城から正式な使者が来ると聞いただけで萎縮していただろう。父の後ろに控えて、必要な時だけ口を開くつもりでいたはずだ。
だが今は違う。
最初から「自分も必要なのだ」と分かっている。
その違いが、足取りを支えていた。
執務室へ向かう廊下には、明らかに緊張が走っていた。使用人たちは皆、壁際へ控えて道を開ける。誰も直接こちらを見ないが、気配だけが集中しているのが分かる。
扉の前に着くと、中から父ベルナールの低い声と、聞き慣れない男の落ち着いた声が聞こえた。
「……ですから、王城としても結論を急ぐ必要が」
「急ぐ必要があるから、こうして来ているのです」
静かながら、押し返しの利かない声音だった。
アリアは一度だけ息を整え、ノックする。
「アリアでございます」
「入れ」
室内には父ベルナールと母マルグリット、そして見慣れない男が一人いた。五十代半ばほどだろうか。衣服は質実で、装飾は少ない。だが王城の上位文官であることは一目で分かる。身につけた記章は控えめだが、かえってその立場の高さを感じさせた。
男はアリアが入ると立ち上がり、丁寧に一礼した。
「お初にお目にかかります、アリア様。私は王城政務調整局のヘルムート・ザイスと申します」
政務調整局。
記録管理でも交通でもない。
王城の中でも、複数の部局や家の利害が絡む案件を束ねる立場だ。
そこから人が来たということ自体、この件が単なる文書解釈ではなくなっている証だった。
「お初にお目にかかります」
アリアが礼を返すと、ザイスはすぐに本題へ入った。
「突然の訪問をお詫びいたします。ですが、北方越境路の件と隣国公爵閣下からの招きについて、王城としての方針が急ぎ必要となりました」
ベルナールが低く問う。
「王城としての方針、とは」
「端的に申し上げます」
ザイスはアリアを含めた三人を見渡した。
「王城は、アリア様が隣国側の原本と草案を直接確認することに、公式の実務的意義を認める方向で調整に入りました」
部屋の空気が一変した。
マルグリットが思わず椅子の肘掛けを握り、ベルナールの視線が鋭くなる。
アリアだけが、胸の奥で静かな震えを感じながら、その言葉を受け止めていた。
王城が認める。
つまりそれは、隣国への渡航が「若い令嬢の気まぐれ」でも「公爵の個人的な招き」でもなく、王城の実務に資する行為として扱われ始めるということだ。
「そこまで話が進んでいるのか」
ベルナールの声音には隠しきれない驚きがあった。
「はい。融雪期運用の整理により、現場からの異議申し立てと王城側の記録不整合が一本の線で繋がりました。さらに、隣国側が保有する原本群の所在と内容が、今後の運用見直しに不可欠であると判断されました」
ザイスは言葉を切らずに続ける。
「王城内でも異論はあります。婚約中の伯爵令嬢を隣国へ送ることへの警戒、侯爵家への配慮、社交界での見え方――ですが、それ以上に、今ここで運用の誤りを正すことの方が重要だという意見が強くなりました」
その一文は、アリアの胸へ深く落ちた。
今ここで運用の誤りを正すことの方が重要。
つまり、自分の存在はもう、家同士の見え方の問題を超え始めているのだ。
ザイスは一枚の文書を机へ置いた。
「正式決裁前の案ではありますが、王城としては『伯爵家の長女アリア・ウェルグランに対し、隣国側原本照合作業への臨時協力を認める』形を想定しています」
マルグリットが息を呑む。
臨時協力。
その言葉は、これまで伯爵家の中でしか消費されなかったアリアの仕事へ、初めて公式な名前を与えようとしていた。
ベルナールが文書を取り上げ、眉を寄せる。
「待て。これは、伯爵家の娘に対する公式の任と同じだぞ」
「完全な任官ではありません」
ザイスは冷静に訂正した。
「ですが、王城としてはそれに近い扱いが必要だと考えています。少なくとも現時点では、アリア様を単なる“家の内輪の補助”としては扱えません」
その言い方に、ベルナールの顔がわずかに強張った。
家の内輪の補助。
まさに今までの扱いそのものだったからだ。
アリアは静かにザイスを見た。
「王城は、私が行くことを認めるのですか」
自分でも驚くほど、まっすぐな問いだった。
ザイスは一瞬だけ表情を和らげた。
「認める、というより、必要と考えています」
またその言葉だ。
必要。
役に立つ。
軽んじない。
行きたいなら、と言った公爵。
そして今、王城もまた必要と言う。
ここまで来ると、もう単なる慰めではありえない。
現実がそう動いているのだ。
マルグリットが、かすれた声で言う。
「でも、婚約は……」
「もちろん侯爵家との調整は必要です」
ザイスは即答した。
「だからこそ、我々も先に伯爵家へ来ました。侯爵家が『体面』の話だけで話を閉じる前に、王城としての優先順位を明示しておく必要があったのです」
その言い回しに、ベルナールは目を細める。
「つまり、侯爵家が反対しても押し切る気か」
「そこまでは申しておりません」
ザイスの声は静かだったが、揺らがなかった。
「ですが、少なくとも“婚約者だから行かせない”だけでは済まない段階に入った、ということです」
その一言は、伯爵家の空気を根底から変えた。
今まで侯爵家は、婚約を盾にして話を囲い込めると思っていた。
伯爵家もまた、その論理を完全には崩せずにいた。
だが今、王城が公式に「それだけでは済まない」と言ったのだ。
アリアはそれを聞いて、胸の奥に熱いものが広がるのを感じた。
嬉しい、というのとも少し違う。
むしろ長いあいだ重しになっていたものが、少しずつ外れていく感覚に近い。
「アリア様」
ザイスが今度は彼女へ向き直る。
「王城としては、あなたの意思を確認したうえで進めたいと考えています」
父と母が同時にこちらを見る。
その視線を受けても、アリアの呼吸は乱れなかった。
「私は、行きたいです」
短く、しかしはっきりと言う。
「原本と草案をこの目で見たい。そして、今まで切り落とされてきた意味を、きちんと繋げたいと思っています」
ザイスは静かに頷いた。
「承知しました」
その承知が、やけに重く感じられる。
今の言葉はもう、家の中だけの願望ではない。
王城の方針を動かすための、本人の明確な意思として受け取られたのだ。
ベルナールが長く息を吐いた。
「……ここまで来ると、侯爵家も簡単には反対できまい」
「反対はするでしょう」
ザイスは淡々と言った。
「ただし、“婚約者を守るため”という綺麗な理屈だけでは通しきれなくなります」
その表現に、アリアは少しだけ心の中で笑う。
まさにその通りだ。
今さら侯爵家がこちらを庇う顔をしても、その内側にある「失いたくない」という焦りは、もうあまりに透けて見える。
「今日中に侯爵家へも、王城としての意向を伝えます」
ザイスが立ち上がりながら言う。
「伯爵家としては、アリア様の意思を踏まえた返答準備を進めていただきたい」
「……分かった」
ベルナールの返事は低かった。
だがそれはもう、以前のような戸惑いだけの声ではない。
現実を受け止めざるを得ない者の声だった。
ザイスが去ったあと、しばらく誰も動けなかった。
最初に立ち上がったのはマルグリットだった。
窓辺まで歩き、外を向いたまま呟く。
「本当に……こんなことになるなんて」
アリアには、その言葉の意味がよく分かった。
母にとって自分はずっと、静かで、手のかからない、でも華やかさには欠ける長女だった。
まさかその娘をめぐって、王城と隣国と侯爵家と伯爵家が同時に動く日が来るとは、想像もしていなかったのだろう。
ベルナールは机へ肘をつき、額に手を当てた。
「……静かにしていれば済む話では、なくなったな」
その一言に、アリアは静かに目を伏せた。
そう。
もう、都合よく静かではいられない。
家の中で「役立つ時だけ使う娘」として済ませられる段階は終わった。
王城が動き、隣国が待ち、侯爵家が焦る。
その中心に、自分がいる。
それは決して気楽なことではない。
けれど同時に、もう誰も「なかったこと」にはできないという意味でもあった。
ベルナールが顔を上げた。
「アリア」
「はい」
「今日のうちに、公爵への返答を整える」
アリアは息を止める。
「ただし、伯爵家としてだ。おまえの意思を明記したうえで、王城と調整に入ると書く」
「はい」
「その返答文は、おまえも読むこと」
たったそれだけの指示なのに、胸の奥が大きく揺れた。
読むこと。
つまりまた、自分抜きで決められるのではなく、最初から当事者として扱うということだ。
「分かりました」
ベルナールは頷き、それからゆっくりと言った。
「おまえはもう、伯爵家の中で都合よく静かでいてくれる娘ではないらしい」
その口調には、少しだけ苦笑が混じっていた。
責める響きではない。
事実を認めた響きだった。
アリアは父を見つめ、そしてほんの少しだけ笑った。
「はい。たぶん、もう無理です」
その返答に、マルグリットが振り返る。
ベルナールも数秒だけ黙って、それから小さく息を吐いた。
それが、この家での一つの区切りだった。
コメント
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いやあ、今回は重かったですね……でも同時に、すごく清々しい回でもありました。 アリアが「行きたいです」と短く言い切った瞬間、胸が熱くなりました。これまでずっと家の中で“都合よく静かな娘”として扱われていた彼女が、王城の使者を前に自分の言葉で意思を示す――その場面が本当に美しかった。 それに、父ベルナールが「おまえはもう、都合よく静かでいてくれる娘ではないらしい」と苦笑するラストも、親子の距離感がほんの少し変わった気がしてじんわり来ました。 王城という公の場が動き始めたことで、物語の重みが一気に増しましたね。次が楽しみです。