テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その日、レッスンでミスをした。
⸻
歩き出しでバランスを崩す。
⸻
「音、集中して」
インストラクターの声。
⸻
「はい…」
⸻
でも、その後も噛み合わない。
⸻
視線も、姿勢も、全部ずれていく。
⸻
周りの空気が、少し冷える。
⸻
「やっぱり無理なんじゃない?」
小さな声。
⸻
「結菜の方がいいよね」
⸻
聞こえないふりが、今日はうまくできなかった。
⸻
(無理…なのかな)
⸻
初めて、そう思った。
⸻
レッスンが終わっても、動けなかった。
⸻
スタジオの隅で、ただ立ち尽くす。
⸻
足が、前に出ない。
⸻
「珍しいな」
⸻
その声で、現実に戻る。
⸻
振り向くと、彼がいた。
⸻
「残らないの?」
⸻
答えられない。
⸻
沈黙。
⸻
「……向いてないのかもしれません」
⸻
初めて、口にした弱音。
⸻
言った瞬間、少しだけ楽になるはずだったのに——
胸が、強く痛んだ。
⸻
彼は少しだけ目を細める。
⸻
「それ、本気で言ってる?」
⸻
「……」
⸻
答えられない。
⸻
すると彼は、少しだけ息をついて言った。
⸻
「じゃあさ」
⸻
一歩、近づく。
⸻
「俺のこと、否定することになるけどいいの?」
⸻
「え…?」
⸻
意味がわからず、顔を上げる。
⸻
彼はまっすぐ音を見ていた。
⸻
「音の一番のファン、俺だから」
⸻
時間が止まった気がした。
⸻
「……え」
⸻
「ずっと見てるし」
「一番いいと思ってる」
⸻
淡々としているのに、嘘が一つもない声。
⸻
「だから」
⸻
少しだけ笑う。
⸻
「やめられると困る」
⸻
胸の奥が、一気に熱くなる。
⸻
さっきまで動かなかった足が、少しだけ前に出た。
⸻
涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
⸻
「……ずるいです」
⸻
「何が」
⸻
「そういうこと言うの」
⸻
彼は少しだけ肩をすくめた。
⸻
「本当のことしか言ってない」
⸻
静かな空気。
⸻
でも——
確かに、何かが戻ってきていた。
⸻
折れかけていたものが、ゆっくりと繋がる。
⸻
好きなのかどうかは、まだわからない。
⸻
でも一つだけ、はっきりしている。
⸻
この人の言葉は——
自分を、前に進ませる。
⸻
それがどんな名前の感情なのか。
答えは、まだ先でいい。