テラーノベル
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珈琲豆の香りが広がる世界。窓を這う蔦の隙間から漏れ出る陽の光は、誰もいないカウンターテーブルに落ちる。
カウンターとそこの段差を埋める古本。暖色系の明かりが灯る小さな店内は、街に呑まれ誰にも気づかれていない秘密基地のような、あの頃の未知と冒険を思い出させてくれる。
からんころん。時刻は正午丁度、上品な鐘の音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
そう丁寧に挨拶をする美蘭に、男はハット帽を脱いで会釈する。白のワイシャツにビンテージと思われる着物羽織。ここだけ見れば大人だが、下は黒デニムのズボンにバスケットボールスニーカー。顔立ちは幼く、実際若いのだと思われる。大学生ぐらいだろうか。
男は奥から二番目の席に座ると、「久しぶりです」とマスターに話しかけた。マスターの方も言葉は無くとも、微笑みで久しぶりと答える。
ここでアルバイトとして働き始め、もう五年だが、彼に関しては一切見覚えが無い。できるだけ記憶を辿るが、それらしき思い出はどこにも無く、頭に熱が籠もっていく。もしかすると、五年以上前のお客様なのだろか。そうでなければ、信じ難い。
しかし、次に男から出た言葉は「美蘭さんもお久ぶりです」だった。私がそれとなく答えると、ぷっと息をもらし、笑いながら教えてくれた。
「僕です、僕ですよ。鈴谷冬馬です」
「あ、あー!」
鈴谷という苗字には変わらず覚えが無いが、冬馬の方には馴染みがあった。丁度私が働き始めたあたりから約一年、放課後に毎日通っていた中学生だ。当時私は大学に通いながらの生活だったから、その一年だけを見れば私よりも彼の方が多くをここで過ごしていたかもしれない。
「え、冬馬君。ウソー、四年ぶりであってる? 大人っぽくなったねー」
「ありがとうございます。そうですね、四年ぶりです」
「ええっと、あの時中学三年生だよね。だから今……」
「大学一年生やってます」
「わー、すご。人ってあっという間に成長するんだね」
「そういう美蘭さんこそ、その指輪。おめでとうございます」
「あ、気づいちゃった? そう、結婚したの」
私がそれを見せるように手の甲を向けていた時だ。冬馬君の前にマスターが何かを置く。そこにあったのは、ジョッキに入れられたメロンソーダと、そこに山のように積まれたアイスクリームだ。
「あれ、そんなのメニューにありましたっけ?」
そう聞くと、マスターは静かに首を振った。
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