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「マスターって顔に出ないだけで、結構陽気なところありますよね」
笑う私とは対照に、冬馬君は黙ってそのグラスを眺めている。その姿を見て、今。校舎前の桜の木の下に立っているかのような、そんな空気を察し、私はただ黙った。
綺麗な瞳だった。大人になり変わったはずのその顔に、当時の幼稚な可愛げの面影を見た。メロンソーダをエメラルドかなにかと勘違いしているのかと、つい疑ってしまうくらいには見惚れている様子だった。いや、彼にとってはエメラルドよりも、価値のあるものなのかもしれない。
「これはあの日。マスターが出してくれた……」
その言葉で桜が舞った。そうだ、このメロンソーダは、冬馬君が初めてこの店に来た時。彼の緊張を解すためにと、マスターがサービスで出したものだ。あの春、慣れない空気を纏うこの空間に、彼の存在を肯定したメロンソーダだ。
「受験当日の朝も。特別に店に入れてくれて、出してくれましたよね。……ホント、お腹壊したらどうすんだって感じでしたよ」
その冗談には誰も笑わない。当の本人である、彼ですらも。その瞳には涙こそ無いものの、あの頃を懐かしく思う心があった。その輝きはエメラルドとは比べ物にならぬほど美しい。
冬馬君がここを使っていたのは、高校受験のため。勉強をするのにこういった場所が丁度よかったからだ。
本来なら彼は、コーヒーの一つでも頼まなくてはならないが、それをマスターが断った。確かお金を払う、払わないで、せめぎ合いが起こった事もあったか。
まあ、結局は最終的にマスターの無言の圧に負けて、コーヒーをいただいていたが。中学三年生の口には、どうも苦すぎたらしい。「マズっ」と思わず叫んでしまって、再びせめぎ合いが……。
「懐かしい」
「あれ、美蘭さん、今何か言いましたか?」
「ああ、いや。懐かしいなって」