テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#執着
猫とろ
1,160
#初恋
金子りさ
1,482
シリアルのナッツ、オーツ麦、コーンフレーク、その他の穀物のザクっとした歯触りが心地よい。噛むたびに胸に浮かんでいた気持ちも、ザクザクと砕けていくような感じがした。
潤は何を思って契約結婚を持ちかけたのか。
単にそれは私と結婚したいための口実。
別にちゃんと愛されていたら問題ない。
指輪だってすっかりと首元に馴染んでいる。
結婚に至るプロセスを、恋愛ゲームみたいに段階を問題視するほど子供じゃない。
私もお金を受け取って了承しているじゃない。
私を騙したところで潤にはなんの得もない。
だから、何もしないのが潤の愛に応えること。
私は変わらなくてもいいの。
いや、でも、それは──という思いは散々悩んだ末に──熱が出た。
口の中でしっかりとシリアルを噛んで、シリアルを浸していた牛乳をスプーンで掬い、飲み込めば甘みが口の中に広がる。
ふわっと穀物の香りが引き立つ。
「うん、美味しい」
良かった、食欲はちゃんと戻っている。
これでいつも通りだ。
上原さんの一件も含め、熱を出してしまったことや、潤にとても心配をかけてしまったことで、私は潤に言われた通り一度立ち止まろうと思った。
思えば十年前のことも、私は潤に何も相談せずに自分の考えだけで突っ走った。
潤も自らは十年前の記憶に触れることはあまりしない。私だって最初こそは気にしていたが、過去より、今。
今の生活が楽しくて、新鮮で、いつの間にか十年前のことを口にすることはなかった。
「ここで、意地になっても仕方ない」
今の私は十年前とは違う。
大人になってちゃんと仕事をして、潤に抱かれて、お嫁さんになって、こんな広い大きな家に住んでいる。
何か行動を起こすとしても責任がついてまわる。
簡単に変わろうとすることが大人には難しい。
それでも些細な変化を起こした時に、周囲に自分の思いもよらない結果を引き起こす。
「確か……バタフライエフェクトって言うのかな」
上原さんのことも、私の思いもしなかった周りの反応があった。
潤はそう言った予測を上回る未来が嫌なのだと思った。
残りのサラダとシリアルをパクパクと食べる。
幸いにも未だ、私がキャパオーバーになって取り乱すという場面は訪れていない。
……夜のベッドの上ではそれは定かではないが、日常では問題ないはずだ。
だから私はボロが出る前に、これ以上何も起こらないように、何もせず。
ここで立ち止まってみるべきなのだろう。
私だって変わらないこの日常は愛しい。
とても大事だ。
──それでいい。
アレコレ私は考え過ぎていた。
元カレの潤と出会い、お金と引き換えに契約結婚という特殊な環境に身を置き、クールにいようと思っていたが実際には浮かれていたのだろう。
カッコよく大人になった潤は、十年前にも増して経済力もあり、仕事だってエリート街道まっしぐら。
そんな潤に相応しくなるためには、私だって変わらなくてはいけない。変わった方がいい。
そんな風に無意識のうちに、ちょっと意固地になっていた。背伸びをし過ぎた。
それが、この二週間で私が出した結論だった。
全てを飲み込むように、サクサクとサラダとシリアルを口に運ぶ。
そしてデザートのオレンジとメロンに手を伸ばす。
最初に柔らかでジューシーな甘い果肉のメロンを堪能したあと、口の中をサッパリさせようとオレンジを口に運ぶと。
「……酸っぱい」
舌の上でメロンの優しい甘さと、シャープなオレンジの酸味がケンカしているみたいに感じた。
「食べる順番、間違えたかも」
小さく肩を落とす。
好物のオレンジなのに、どこかほろ苦さを感じながら食べるのだった。
昼下がりに家を出て、出勤途中。快速電車の中でスマホを見れば、潤からのメッセージを受信していた。
『無理はしないように』
『心配だから仕事が終わったら、一緒に帰ろう。スカイビルのコンビニ前で待ってる』
ちょっぴり過保護だと思う反面、嬉しくなる。
ここ数日、私が寝込んでいた間は潤が自ら進んで全ての家事をしてくれていた。
今日の夜ご飯はお返しに、何か作ってあげたい。
帰りにスーパーに寄って、二人で夕食の献立を決めるのも良いだろう。
口元を緩ませながら、潤に『わかった。一緒に帰りましょう』と返事をした。
これで仕事をして、ご飯を作って、潤と過ごす。ちゃんとしたいつも通りの日常だ。
何も問題ないと、スマホをバッグの中に入れる。次々と駅を飛ばしていく快速電車に、しばし身を任せるのだった。
──会社に着くと、上司や先輩達がとても優しく迎えてくれた。急なお休みをしてしまいご迷惑をかけたと頭を下げると、「気にしなくていい」「相変わらず真面目だ」と苦笑されてしまったが、その温かな空間にほっとした。
数日休んでいたので業務内容は浦島太郎状態だったが、手を動かしていくとそれも解消され、自然と業務が馴染んでいった。
そうこうしていると、あっという間に定時。午後からの出勤はさすがに時間の流れが早い。
体調にも問題はないと思っていると、上司だけがずっと席に着席していた。
話を聞けば労働保険の年度更新や社会保険の算定基礎届の作成、提出が今年は少しだけ早まるとのことで、前もって準備をしておくために少し残業をするのだと教えてもらった。
それを聞いて、私は潤との約束があったものの、「切りの良いところまで手伝います」と言ってしまった。
ここ数日、休ませてもらっていた。しかも今日は午後からの出勤。
その罪滅ぼしではないけれど、このまま部署を後にするのは忍びなかった。
上司には見えないようにスマホを取り出して、潤にさっと『ごめんなさい。少しだけ残業します』と連絡を入れる。
するとすぐに『分かった。スカイビルの中にある、ブックカフェで時間を潰している。あまりにも遅かったら俺が手伝いに行く』と返信が返ってきた。
潤なら本当に来てしまいそうだ。
そんなことを考えながら、早速手伝おうと鞄を再び自席に置き、上司に「早く終わらせてしまいましょう」と微笑むのだった。
※
「三十分くらい、待たせてしまったかな」
私はSACRAのビルを出て、夕陽に染まったオフィス街を急ぎ足で駆けていた。
ポツポツと街灯に灯りがともり、道路に面した飲食店や居酒屋の看板も光り出している。
実は上司の残業を手伝っていると、たまたま忘れ物をしたという先輩が部署に戻ってきて、そのまま「こりゃ見過ごせない。早く片付けてみんなで帰ろう」と仕事を手伝ってくれたのだ。
三人集まればさすがに作業はあっという間。
思ったよりも早く、切りのいいところで残業は終わったのだった。
ちょっぴりでもお役に立てたなら良かったと思いながらも、気持ちは焦っていた。
「潤、待たせてごめんなさい」
一度立ち止まり、潤に謝罪を述べながらスマホで『今、向かっています』メッセージを送った。
「ブックカフェ、スカイビルの何階だったっけ」
ブックカフェは確か落ち着いた雰囲気で、夜には夜景を見ながらまったりと本を読める、素敵なカフェだったと思う。
「知的な潤にはぴったりな場所ね」
想像する。
おしゃれな店内。
落ち着いたBGM。
夕暮れ時のビルの背景に、潤が本を片手に読んでいて、私が『遅れてごめんね』と言うと、潤が眼鏡をそっと押さえて『今から迎えに行こうと思っていた』と微笑む。
そんなありふれた待ち合わせの光景を想像していると、視界の中央にスカイビルが現れた。
コメント
1件
第33話、読み終わりました…! シリアルを噛むたびに気持ちも砕けていく感じ、すごく伝わってきました。無理に変わろうとしなくていい、という結論に至るまでの静かな葛藤が丁寧で、主人公の「今」を大切にしたい気持ちが沁みました。 最後の待ち合わせの想像、ちょっと甘くてほっこり…🥺 潤の過保護なメッセージにもほっこり。日常の描写が美しくて、じんわり良かったです。